管理人 : 松浦明宏
隠れたカリキュラム、知徳一致、無抑制 ー知識と振る舞いとのギャップー
知識と振る舞いとのギャップの問題は、古くは、ソクラテスの知徳一致、アリストテレスの無抑制論などの形で、最近では、(たとえば医学教育における)隠れたカリキュラムという形で、哲学・倫理学上の問題点として、常に指摘されてきた事柄であると思います。講義では倫理学を教えながら、実生活では反倫理的に振る舞う倫理学教師などは、知識と振る舞いとが一致しない典型例と言えるのでしょう。
その意味では、隠れたカリキュラムや知徳一致等の問題は、単に医学教育等々において問題になるというだけでなく、哲学・倫理学を専門とする人々の間でも問題になるわけです。もちろん、他の分野の教育現場においても問題になることは言うまでもありません。

今回の話は、ほぼ一年前の研究集会(医療の質の向上を目指して)において、隠れたカリキュラムという問題の哲学的背景は何か、というご質問を受けて、その場で即答できなかったことについての、現時点での応答とお考えいただければと思います。

知徳一致や無抑制の問題がなぜ隠れたカリキュラムの問題と密接につながるのかについて、一言説明しておきましょう。無抑制については、さしあたりここではごく大雑把に、次のように考えておいてください。たとえば、タバコは健康に悪いと知りつつタバコを吸う、ケーキを食べると太ると知りつつケーキを食べる、という類いの例は、「悪いと知ってはいるがその悪いことをする」ことの例と考えられます。そこで、こうした仕方で「悪と知りつつその悪をなす」ということを「無抑制」という用語で呼ぶことにします(抑制が効かないという意味で「無抑制」)。

次に、これは既に論文等の形で紹介したことですが、隠れたカリキュラムの問題背景の一つに以下のことがあります。正式科目として教えられる倫理学は、倫理学上の概念や倫理的推論技術を教えることはできるけれども、そうした倫理的推論技術を身につけた人が必ずしも倫理的に振る舞うようになるというわけではなく、その人の実際の振る舞いは正式科目として教えられる倫理学の内容とはあまり関係がない。むしろ、その人の実際の振る舞いは、教師や友人の言動等、周囲の環境によって決まる。正式科目としての倫理学の授業等によって何が(倫理的に)善いことかを教えられたり本で学んだりして知識を持っている人(有識者等)が、その善いことを実際に行うか(知徳一致)行わないか(無抑制)が問題化されているという意味で、「隠れたカリキュラム」という現代の倫理問題の哲学的背景の一つとして、知徳一致や無抑制の問題があるという言い方もできるでしょう(もちろん、ごく大つかみに言えばということですが)。

ではなぜ知識と振る舞いとが一致しないのでしょうか。この問題についての一つの説明として、たとえば、次のものが考えられます。

<確かに、教科書に書いてある通り、正義や誠実は大切なことである。しかし、この世界で生き残ろうとするならば、悪いとわかっていても先輩や教師がする通りのことをし、命じられた通りのことをしておいた方がよい。> このように考えて、「悪いと知りつつ悪をなす」という一種の無抑制が生じる。

これは、言うまでもなくごく単純化した説明なのですが、仮に今、こうした選択的判断によって教科書的な知識に反した振る舞いをするのだとすれば、人の振る舞いを決定するのは、次に述べる「二階の価値」のレベルでの価値判断であり、教科書に書かれるなどの仕方で提示される「一階の価値」のレベルでの価値判断ではない、ということになりそうです。

ここで、「一階の価値」、「二階の価値」というやや奇妙な言葉は、おおよそ次のような意味で用いているとご理解ください。上掲の< >内においては、正義や誠実は「大切なことである」という価値づけと、この世界で生き残る(ことは「よいことである」)という価値づけが前提されています。「この世界(医師の世界、倫理学者の世界etc.)で生き残ること」はその世界に入って来た人間ならば誰でも「よいこと」と考えているはずなので(さもなければ、その人はその世界に入ってはこなかったはず)、これも価値の一つに数えることができると思います。そして、上の<>内においては、それらの二つの価値から一方を他方よりも「よしとする」という選択的価値づけがおこなわれていると考えられます。その選択的価値づけが行われた結果、「教科書的には悪いことであると知りながら、この世界で生き残ることはよいことであるという正当化に従って、先輩や教師の振る舞いを真似してその通りに振る舞う」、ということになるように思います。以上の価値づけのうち、選択的価値づけの前提となる二つの価値を「一階の価値」、それら二つの「一階の価値」から一方を「よしとする」という際のその「よさ」を、一階の価値について価値づけられた「よさ」という意味で「二階の価値」と私は呼んでいるわけです。そして、「教科書的には悪いことであると知りながら」その悪いことをなすわけですから、この意味において、その行為は一種の無抑制であるように思えるのです。

たとえば、こういう例を考えてみましょう。「このような重大な医療ミスや二重帳簿を何度も重ねていたことを院外に公開することにした場合、たしかに、正直・誠実であれという教科書的な倫理原則に従って正しく振る舞ったことにはなる。しかし、もしそうした医療ミス等を公開すれば、この病院は患者や社会からの信用を失い、生き残るのが難しくなる。むしろ、病院の経営のためにはそれらを公開しない方がよい。だから、医療ミスや二重帳簿については院外には公開しないことにする。」

この場合には、正直・誠実という教科書的な善と、病院の経営という現実的な善とがはかりにかけられていて、現実的な善の方を「よしとする」という仕方で、二階の価値付けが行われた結果、医療ミスや二重帳簿の事実を公開しないという仕方で振る舞う、ということになると思います。

あるいはまた、隠れたカリキュラムの問題が論じられる際に例に挙げられる「はだかの王様」の場合で言えば、次のようになるでしょう。まず、この童話の内容を確認しておきましょう。「王様自身も家来も町の人々も皆、王様ははだかだと思っている(知っている)。しかし、それをそのまま正直に言ってしまうと、自分たちは愚か者(stupid)であると思われるか無能(incompetent)であると思われることになる。だから、そう思われないために、王様の”衣装”をほめたたえる。子供はそのような評判を気にしないので、「王様ははだかだ」と、見たままを正直に言う。」

この例においては、人々は、王様がきれいな衣装を身につけているなどとは嘘だとうすうす感づいていながら、その嘘を言うという意味で、「悪と知りつつその悪をなす」と言えるのではないかと思います。となると、この場合にもまた、(多少のズレはありますが)先の例と同様、真実という善と評判という善とがはかりにかけられ、評判という善の方をよしとするという仕方で価値選択が行われているという見方もできるでしょう。

ちなみに、この「はだかの王様」の場合の「隠蔽性」は、以前、私が分析した場合の次の三つの隠蔽性では、おそらくは、対処できない隠れたカリキュラムであり、補足しなければならない、ということになるのでしょう。

(1)「表立って誰に向かってでも言えるか言えないか」「公にできるかできないか」という意味での顕在性と隠蔽性
(2)「発話されるかされないか」「文字に書かれるか書かれないか」という意味での顕在性と隠蔽性
(3)話したり、文字を書いたり、その他何らかの振る舞いをする人が、自らの振舞いに含まれる意味を「自覚・意図しているか否か」という意味での顕在性と隠蔽性

つまり、「王様の衣装は美しい」という「嘘」を、自ら嘘であると自覚しつつ((3)の意味での顕在性)、誰に向かっても言うことができ((1)の意味での顕在性)、現にその嘘を発話している((2)の意味での顕在性)。したがって、上記の区分だけでは、はだかの王様の例の持つ隠蔽性を説明できないわけです。

そこで、新たに、次の項目を追加することにします。

(4)「公にされた内容あるいは発話された内容に自分の本心が現れているかいないか」という意味での隠蔽性と顕在性。

この意味での隠蔽性と顕在性とを付け加えた場合、

「王様の衣装は美しい」という嘘を、うすうす嘘と感じながら、公言する、という例は、(1)の意味での顕在性、(2)の意味での顕在性、(3)の意味での顕在性、(4)の意味での隠蔽性、を持った隠れたカリキュラムであるということになるでしょう。

参考までに付け加えれば、「君、ここだけの話だが、あの先生の授業に出て勉強する必要はないよ」という発言については、(1)の意味での隠蔽性(公言できない)、(2)の意味での顕在性(発話されている)、(3)の意味での顕在性(発話に含まれる意味を自覚している)、(4)の意味での顕在性(発話に本心が現れている)、という仕方で隠蔽性の種類を特定できます。

公言内容または発話内容が「虚偽」か「真実」かの区別についてこれまで私は曖昧だったわけです。(1)〜(3)のみの場合には、発話内容等が語り手の本心であることが前提されていたのですが、嘘を語る場合もありますので、それを考慮して(4)を付け加えたということです(これもまだ、暫定的な案に過ぎませんので、どこか間違っている点があれば、ご指摘いただければ幸いです)。

さて、やや話が脱線しましたが、もし以上の通りだとすると、「はだかの王様」や「医療ミス等」の例について、無抑制という言葉を当てはめてよいのかという疑問が生じるかもしれません。なぜなら、先の選択的価値判断においてもう一方の選択肢が選ばれたとしても、同じように「悪いと知りつつその悪をなす」と言えるからです。つまり、たとえば、医療ミス等を公開しないことは病院の経営にとってはよいことであるが、公開して正直に振る舞うことの方がもっとよい、と考えて、医療ミスや二重帳簿を公開することにした場合にも、病院経営にとっては悪いことをするという意味で、悪いと知りつつその悪をなす、ということもできるということです(「はだかの王様」の場合も同様です)。

となると、それら二種類の選択的価値判断の間の違いはどこにあるのか、ということが問題になるでしょう。経営的には悪いが公開するという意味での「悪いと知りつつ悪をなす」ことと、教科書的には悪いが公開しないという意味での「悪いと知りつつ悪をなす」こととの間には、どういう違いがあるのでしょうか。

この点については、これからよく考えてみなければならないと思います。たとえば、医療ミス等を公開することは短期的には経営に悪いかもしれないが長期的にみればむしろよい、等々のことです。ただし、そう考えた場合にも、経営の善し悪しを基準に振る舞いを決めているという点では同じなのです。

ひょっとすると、アリストテレスの分析を参考にして、次のように理解するのがいいのかもしれません。つまり、経営を基準に振る舞いを決めるという考えのうちには、自分たちの生活を守る、生き残る、といった仕方で現れた「欲望」がその選択的価値判断の内部に潜み、背後でその判断(理性的なもの)をコントロールしているのに対して、正直・誠実を基準にする選択的価値判断は、そうした意味での欲望から離れている。この違いが二種類の選択的価値判断の間の違いを特徴づける一つの目印である、と理解するということです(ただし、この理解においては、たとえば普遍命題と個別命題との違いをさしあたり考慮していないなどの点で、必ずしもアリストテレスの実践三段論法による無抑制論と同じものとは言えないのですが、「悪いと知りつつその悪をなす」ことが生じる際の根本的な要因として「欲望」を想定しているという点で、アリストテレスの分析を「参考にしている」、と私は言っているのです)。

もっとも、欲望が理性的なものをコントロールしているといっても、そうした欲望が必ずしも全面的に否定さるべきものであるとはとても言えないのでしょう。むしろ切実な問題であるという意味では、それなりの重要性を持っているとも言える。その世界で生き残ることはやはり無視できない重要性を持っているのでしょうから。その意味で、私は、欲望のコントロールを受けた価値判断を必ずしも「悪いもの」だとは言わないでおくことにします。しかし、そうした価値判断をコントロールしているのは欲望である(かもしれない)という点は、意識しておく必要があると思います。なぜなら、振る舞いを決めるのが先に述べた「二階の価値」であり、その種の価値づけをコントロールしているのが欲望である場合には、その欲望の強さの度合いが高まるにつれて、件の選択的価値判断によって決定される振る舞いを当然のことと見なす度合いが高まるのでしょうから。そして、そうした当然視が強まるにつれて、自らが行っている振る舞いの「よさ」の正体が何であるかを自覚せずにそのように振る舞っていることになるのでしょうから。

人間として生きていく以上、欲望のコントロールから完全に離れた価値判断を行うことは極めて難しい。人間は神ではないのですから。したがって、人間にとって次善(?)の策は、なるべくそのコントロールを離れた判断を行うことである。欲望のコントロールを離れる度合いが大きいか少ないかによって、その判断に基づく振る舞いの性質が変わる。通常の人(周囲の人)よりも欲望のコントロールを離れるその度合いが大きければ、その人は理性的(あるいは、理想主義的)と言われるのでしょうが、だからといってその人(の振る舞い)が完全に欲望から離れているとは限らない。その逆もまた真である、ということです。

今回は、何か、事柄を非常に単純化した上で考え込んでしまったようです。隠れたカリキュラムの問題一つとっても、その「隠蔽性」(hiddenness)にはいろいろな種類があり、今回考えたのはそのほんの一つか二つにすぎません。また、選択的価値判断の基準を「欲望」にとると何か悪いことをしているように見えるけれども、それを「周囲の人々との協調性」というふうに言い換えれば、特に悪いことをしているということにはならないのかもしれません(し、なるのかもしれません)。これら以外にももちろん不十分な点は多々あるとは思いますが、それらをも含めて、これからは、もう少し細かい点も考慮してさらに考察を進めていこうと考えています。とりあえず今回は、おおまかな見通しを述べたということで、ご理解いただければと思います。
by matsuura2005 | 2004-12-09 18:50
白鳥の歌とスピリチュアル・ペイン >>
<< 『プラトン解釈 ーディアレクテ...