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管理人 : 松浦明宏
『プラトン解釈 ーディアレクティケーと不文の教説ー』
明けましておめでとうございます。
しばらくHPの方を留守にしておりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年はほとんどギリシア哲学関係の仕事ができなかったので、今年はなんとかしてその方面の仕事をしようと思います。
そこで、プラトンについてこれまで研究してきたことをまとめ、それにさらに少し研究したことを加えた著書を書くという想定で、その計画を書いてみました。
計画なのでもちろん修正や変更はありえますし、そもそもこの計画が実現しないかもしれませんが、今年の目標くらい掲げてもばちはあたらないだろうという意味で、以下のような文章を書いてみました。今年の私の書き初めという程度にご理解いただければと思います。


『プラトン解釈 ーディアレクティケーと不文の教説ー』


目次

はじめに
第一章 プラトン解釈の手法
第二章 ディアレクティケーの素描とその意義
第三章 ディアレクティケーの成立根拠
第四章 不文の教説とディアレクティケーの成立根拠
おわりに


参考文献

はじめに

 プラトン哲学について書物を書くことに、いったいどのような意味があるのだろうか。このように言うと、それだけで本書を読む気がなくなってしまう人がいるかもしれない。この問いは、見ようによっては、プラトンについて書物を書くことは無意味である、という答えを予想させ、著者自身が無意味であると思いながら書いているような文章をなぜ読まなければならないのか、と受け取られるかもしれないからである。しかし、私はこの問いをそのように消極的な意味で問うているわけではない。むしろ、それは本書全体を貫く積極的なモチーフであり、その問いに対して積極的に答えようと試みたのが本書であるとも言えるのである。

 そもそもなぜ私は冒頭のように問いかけたのだろうか。理由はごく単純なことである。プラトン自身が自分の哲学の最も重要な部分を書物の中には書かなかったと述べているからである。プラトン哲学の核心はプラトンの著作の中には書かれていない。そのことを著者自身が明言している。とすれば、プラトン以外の人間が、プラトン哲学について、その著作や種々の伝承にもとづいて考察を行い、プラトン哲学とはこういうものだと説明したり、プラトン哲学に対する批判を述べたりすることに、いったいどれほどの意味があるのか、ということになるであろう。だから私は冒頭のように問いかけたのである。

 これをもう少し大きな局面に移して言えば、上述の問いは西洋哲学史全体の存在意義の問題でもあるということになるであろう。というのは、もしホワイトヘッドの言うように、西洋哲学史の全体がプラトンに対する一連の脚注であるとすれば、その「脚注」そのものの存在意義が、プラトン自身の発言によって問われているということにもなるからである。プラトン哲学の「本文」が著作に書かれていないのに、それに「脚注」をつけることにどれほどの意味があるのか、そもそもそれは「脚注」なのか、ひょっとするとそれは「セミの脱け殻」をつつき回しているだけの妄想なのではないか、というわけである。

 果たして西洋哲学の全体は無意味な活動だったのだろうか。そうではあるまい。だが、それが無意味ではないと言えるためには、まずプラトン哲学について語ることが有意味であることを示さなければならない。そのための一つの試みが本書なのである。その意味で、本書はプラトンに対する一種の挑戦であるという言い方もできる。プラトン自身は著作の中に書かなかったと述べている「核心」を、プラトンの著作の中からあぶり出そうと試みるのだから。

 もちろん、その試みの正否を決める明確な基準はない。基準となるはずの正解はどこにも書かれていないのだから。だが、私に思われるところでは、原理的に言えるはずのないことを知力をふりしぼって言おうとすること、このことの中にしかプラトン哲学に接近する道はない。そういう仕方でプラトン哲学へ漸近していこうとすること、このことが私にとっての「哲学(愛知)」なのである。プラトンの著作の解釈そのものが一つの哲学の営みでありうるのであり、それが哲学であるからこそプラトンについて語ることは有意味なのである。実際、わかるはずのないことをわかろうとすること、そうするうちに自分の生き方がまるごと変わってしまうこと、このこと以外のいったいどこに哲学があるのだろうか。

 したがって、本書は、私自身の哲学の営みをそのまま著わしたものであり、単なる解釈論争を描いたものではない。もちろん自分で考察するためにはまず在来解釈を或る程度踏まえておかなければならない。そうでなければ、おそらくは、まともな意味で、考えることさえできないだろう。だが、私が行いたいのは人の考えを紹介することではない。自らの考察を記すことによって自らの哲学の軌跡を描くことである。それが私の理解する限りでの「哲学書」というものである。





 本書の内容および構成について一言しておこう。本書は、主にプラトン後期著作群に属する『ソフィステース』に見られる哲学的問答法(ディアレクティケー)と、アリストテレス等、プラトン以外の人々がプラトンについて語った間接伝承「不文の教説」(agrapha dogmata (unwritten doctrine))との関わりについて考察したものである。特に本書で扱うのは、間接伝承に見られる「一」(hen)と「不定の二」(aoristos duas)という二つの原理(archai)を、『ソフィステース』に見られるディアレクティケーの「(成立)根拠」(aitia)との関連で捉える試みである。これは決して、間接伝承に見られる二つの原理が単純にディアレクティケーの成立根拠に「あてはまる」と主張するものではなく、『ソフィステース』等の直接伝承を基準にして不文の教説という間接伝承がどのような位置づけを与えられるかを見るということである。このことが以下の手順で論じられる。

 プラトン哲学について論じる場合に、まず念頭においておかなければならないのは、プラトンの著作の性格である。プラトンは、書簡を除けば、対話篇という形式によってしか著作を行わなかった。そこでまず、この対話篇形式の持つ意味について、本書が採る考え方を示すことにする。その際、特に、テキスト解釈のありかたをめぐって、シュライエルマッハー主義とチュービンゲン学派との論争を簡潔に紹介し、特に『テアイテトス』の記述に基づいて、シュライエルマッハー主義の一部を批判する。この批判によって、現在、アングロサクソン系諸国で主流となっている研究手法ならびにその影響下にある日本で主流となっている研究手法に対して、疑義を投げかけることになる。それはまた本書で採られる解釈手法を正当化する試みでもある。これを第一章で行い、本書の議論の土台に据える。

 第二章では、『ソフィステース』に見られるディアレクティケーがどのような手続きであるのかを見る。この対話篇に現れるディアレクティケーは、通常は、『パイドロス』に見られる簡略化された記述に基づいて「分割と総合の方法」と言われるけれども、詳しく検討してみると、総合、分割、選択統合、およびこれらの反復という四つのプロセスが認められ、それをプラトン自身が意識していることがわかる。また、このディアレクティケーのプロセスに現れる「ある」という言葉を検討することによって、「自体的に語られるある」と「他のものとの関係で語られるある」という、古来しばしば議論の的となってきた二つの「ある」の具体的な意味内容を明らかにすることができる。総合のプロセスに現れる「ある」は「自体的に語られるある」の一種であり、分割のプロセスに現れる「ある」は「他のものとの関係で語られるある」の一種である。そして、後に見るように、分割と総合とは同じ一つの認識活動の二つの異なるアスペクトである。したがって、件の「自体的に語られるある」と「他のものとの関連で語られるある」は、「ある」という同じ一つの類の二つの異なるアスペクトである。このことが選択のプロセスにも同様にあてはまる。「ソフィストは魚つりその他の獲得術者たちと同族である」という場合の「ある」が選択における関係性の「ある」であり、「ソフィストは獲得術という性質を持っている」という場合の「ある」(所有)が選択における自体性の「ある」である。結局、総合、分割、選択において合計四種類の「ある」が認められることになるわけである。この自体と関係の「ある」は、間接伝承において「一」が「自体性」と、「(不定の)二」が「関係性」と、各々、しばしば対応づけて考えられていること等を考えると、われわれが次章以下でディアレクティケーの成立根拠と間接伝承との異同を考える場合に常に念頭においておくべき事柄である。ただし、もちろん、間接伝承にみられる自体性と関係性がわれわれの議論におけるそれらと必ずしも同じであるというわけではない。間接伝承の内容の整理にわれわれの議論が寄与するということである。

 第三章では、第二章で見たディアレクティケーの成立根拠について考察する。総合と分割という認識活動が成り立つためには無限定という状態が成立していなければならず、選択という認識活動が成り立つためには限定という状態が成立していなければならない。その意味で、無限定と限定はディアレクティケーという真理探究方法の成立根拠・成立基盤をなす。ディアレクティケーの成立根拠は無限定と限定にとどまるものではなく、「ある」「異」「同」「静」「動」といったいわゆる「最大の類」や「一」と「二」といった数もおそらくは成立根拠に数えることができるであろう。第二章で指摘した自体と関係という二つのアスペクトは成立根拠の場面にもあてはまると見られ、無限定に自体のアスペクトと関係のアスペクトが想定され、限定にも自体のアスペクトと関係のアスペクトが想定される。たとえば、「一」には、無限定としての「一」(共通性・普遍性としての「一」)と限定としての「一」(固有性としての「一」)が認められ、これらは各々、無限定の自体のアスペクト、限定の自体のアスペクトに帰属するものと見られる。なお、本章では、『ピレボス』において示唆される無限定と限定や「大と小」(これは不文の教説における「不定の二」と密接に関わると見られる)をも念頭に置きながら、件の成立根拠についてそれがどのようなものかを考察する。

 第四章では、不文の教説について、特に「一」と「不定の二」がどのようなものであるのかを見、その上で、第三章までに行ってきたわれわれの議論がどのようにこの間接伝承の理解に寄与するのかを見る。例えば、シンプリキオスはその『アリストテレスの自然学注釈』の中で「不定の二」(大と小)という質料とされるものについて、プラトンがこれを思考によって捉えられるとしているのは首尾一貫しないという趣旨の疑義を提出しているが(151, 6〜19 Diels, 453, 20〜30 Diels)、この疑義については、次のように応答できるだろう。すなわち、われわれの議論によれば、不定の二はディアレクティケーの成立根拠であり、根拠というものは感覚によってではなく思考によって捉えられるものである以上、不定の二は「思考によって捉えられる質料」と見ることができる。
by matsuura2005 | 2005-01-03 18:47
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