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管理人 : 松浦明宏
David Sedleyの『テアイテトス』解釈
以下は、最近書いた拙稿『プラトン解釈 - 『ソフィステース』篇におけるディアレクティケーの真意』(仮題)のうち、デヴィッド・セドリーに関する節をそのまま掲載したものです。

セドリーが昨年出版した書物(正確にはその書物が出版される前に行なわれたセミナー)については、既に「David Sedley氏のセミナー感想」として
http://matsuura05.exblog.jp/1528424
にアップしましたが、今回書いた文章は、それをもとにバージョンアップしたものです。その際、「真実味・もっともらしさ」(Plausibility)という概念は、どうも私には、釈然としないところがありましたが、一応、下記の拙稿のような形で反映させることにしました。 ちなみに、
http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ysekigch/qual/qualassess.html
http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/kr/tomo980602.html
を参照すると、理科系(?)と文科系の研究者が想定しているPlausibilityについて一応の理解は得られると思いますが、これら二つのサイトのうち、前者では、論文の主張を読んだだけでPlausibility が得られる場合にはその主張のCredibilityやEvidenceをチェックする必要はない、という方向で考えられているようです。これはつまり、論文の主張にPlausiblityがない場合にCredibilty やEvidenceを検討するという仕方で、Plausibilityの役割を想定しているということになるのかもしれません。後者のサイトでは、論証の前提にPlausibiltyがなければその論文の結論も認められない場合もありうるということが、否定的な仕方ではありますが、示唆されているように見受けられます。

これらのサイトで言及されている手法のどれにあてはまっているのか、私自身判然としないところがあるのですが、一応、以下のセドリー批判においては、論証の隠れた前提(後述)のPlausibiltyとその隠れた前提のもとで導かれる結論(主張)のPlausibiltyの両方を問題にしたつもりです(これらを区別することにどの程度意味があるのかも問題ですが)。論証の隠れた前提とはつまり、「プラトンは『テアイテトス』において中期イデア論を前提せずに議論を組み立てている」という前提であり、その隠れた前提のもとで導かれる結論とは「『テアイテトス』第一部末において、知性的感覚がテキストに含意されている(そして、それが含意されるような仕方でプラトンがその箇所を書いている以上、プラトンはその箇所で知性的感覚を示唆している)」ということです。テキストに含意されていることと示唆されていることとを区別していないという点で、私の議論にはややルーズなところがあるとは思いますが、この点は、おそらく、セドリー批判の成否には影響しませんので、私としては、無視して構わないと考えています。なお、これは以下のセドリー批判には書いていないことですが、下記のようにしてセドリーを批判した後で考えられるべき事柄として、私は、『テアイテトス』第一部末のテキストに含意されている知性的感覚の内実を説明するには、ユニタリアン的な立場をとる方がより自然であると考えています。このようにして、私は、以下のセドリー批判を通じて、ユニタリアンと分断派(または中間派)との争いにコミットしているつもりです。以下が拙稿ですが、書いたものをそのまま切り取ったものですので、前の章への言及など、一部意味不明のところもあるかと思いますが、その点はあしからずご了承ください。


四 デヴィッド・セドリーの『テアイテトス』解釈  - テキストとサブテキスト -

『テアイテトス』という対話篇は、既に本章第二節で述べたように、知識とは何かを定義しようとする対話篇である。その吟味活動においてソクラテスはテアイテトスを相手に産婆術(maieutikhv)を駆使し、テアイテトスの精神のお産を助ける役割を果たす。ただし、ソクラテスの役割は、テアイテトスの生み出した考えが健全なものかどうかを吟味して、それが不健全であるとわかればそれを破棄させることが中心になる。

セドリーによれば、『テアイテトス』には、対話篇登場人物(テアイテトス)に対する産婆術(internal midewifery)と、対話篇読者に対する産婆術(external midwifery)とがあり、前者は失敗しているが、後者は成功するかもしれない。つまり、対話篇上ではテアイテトスに対するソクラテスの産婆術は失敗し、結局知識の真なる定義は得られなかったけれども、対話篇読者に対する産婆術は、「われわれが、書かれたテキストを進んで捨て去り、われわれ自身のために対話(dialectic)を続ける」ようにする力をもっていて、その結果、われわれは知識のよりよい定義へと到達することができるかもしれないということである。そして、そのようにしてわれわれが生み出す「知識のよりよい定義」(a better definition of knowledge)というのは、「プラトンが諸々の対話篇の中のどこにも定式化しておらず、むしろ読者がそれに取り組むに任せている定義」である。

さて、これまでアングロサクソン系のプラトン研究者の多くは、前節で見たシュライエルマッハーの考えを反秘教主義(顕教主義)と誤解するなどして、しばしば、対話篇上に明示的に描かれている事柄だけに注意を集中する傾向にあった。場合によっては、『テアイテトス』なら『テアイテトス』という一つの対話篇を解釈する時に、『テアイテトス』に明示的に語られる文言のみを解釈の材料として用い、他の対話篇に見られる文言や思想内容を解釈の中に持ち込むことを排除しようとしてきた。前節末で示したように、スレザークがシュライエルマッハー主義に反論する際の主張を見ればそのことは明らかであろう。その意味で、アングロサクソン系のプラトン研究者が、言外の意味(subtext)をクローズアップする仕方で解釈を提示したことには、大きな意義があると言ってよいだろう。 しかし、その「言外の意味」がいかなる内実を持っているのかという点になると、必ずしもセドリーの考えを支持することはできない。その理由は、セドリーの言う「産婆術的解釈」(maieutic interpretation)を見ることによって明らかになる。

セドリーの産婆術的解釈によれば、『テアイテトス』の読者は、第一定義から第二定義、第三定義へと、対話篇上で徐々に改訂されていった諸定義、しかし、結局は正しい仕方では到達されなかった知識の定義を、対話篇の外で読者自身がさらに改訂してよりよい定義を得るよう、プラトンによって促されている。したがってまた、対話篇上に現れている諸定義は、いわば徐々に進歩し、より以前に検討された定義より、より後に検討された定義の方が真なる定義にいっそう近づいている。だから、読者は、対話篇全体の末で破綻している定義をさらに進歩させ、その意味で、対話篇の外部でより正しくさらに進歩した定義を得るようにしなければならない。セドリーによれば、この意味において、プラトンは、言外の意味(subtext)として、読者に対する対話篇外の産婆術を示唆しているわけである。

さて、この産婆術的解釈は、たとえば、第一定義が破綻して第二定義に移行する際に、対話者たちは、知識を感覚の中に求める必要はないというところまでは進歩した旨語られることと整合的であり(187a1-6)、対話篇末でもほぼ同様のことが語られているとみてよい(210b11-d1)。その意味では、セドリーの解釈は、テキストに基づいた解釈であるということができる。また、テアイテトスが定義に失敗し、少なくともそれまでテアイテトスが考えていたようにだけは考えないようになる、という意味での進歩があることについては、私は否定しない。しかし、この種の進歩は、必ずしも、セドリーの言うような、対話篇のより前の部分で検討された定義よりも、対話篇のより後の部分で検討された定義の方が、真なる定義に近づいているということを意味しない。むしろそれは、単にテアイテトスの心のあり方がより悪い状態からより良い状態へと(無知から知へと)改善されていることを述べているにすぎない。心のあり方の変化と定義が真か偽かという問題とは必ずしも同じことではないということである。

このことを示すためには、本章第二節で見たわれわれの議論を振り返るのがよい。もっとも、われわれの議論をここで介入させれば、セドリーへの内在的批判にならなくなるのではないかという反論が予想されるが、その反論には後に応答する。

本章第二節においてわれわれは次の推論を示した。「比較考量の中に知識がある。そして、知識とは感覚である。したがって、比較考量の中に感覚がある。」この推論の二つの前提は、一つの文脈の中でテキストに明記されており、テアイテトスがそれら二つの前提を認めていることもまたその文脈の中でテキストに明記されている。そして、それらがそのような仕方でテキストに明記されているということをセドリーは認めざるをえない。とすれば、もしセドリーが自らのその承認内容に整合的でありさえすれば、セドリー自身、上の推論の結論を自ら導かなければならない。つまり、比較考量の中に知識があるということと、知識とは感覚であるということを自らの信念体系の中へ採り入れることを認めた者は、その採り入れた事柄に整合的であろうとすれば、誰でも、比較考量の中に感覚があるということを認めなければならない。そして、セドリーは、それらがプラトンのテキストに上述の仕方で明記されていることを認めなければならない以上、それらを自らの信念体系の中に採り入れることを認めざるを得ない。したがって、(もしセドリーがその信念体系に採り入れた事柄に整合的であろうとするなら)、セドリーは、比較考量の中に感覚があるということを自らの信念体系の中で導かなければならない。

さて、そうなると、その比較考量の中にある感覚を知識であると置けば知識とは感覚であるという定義を保つことができるということにも、セドリーは同意しなければならない。なぜなら、感覚という言葉を知性的な意味に解した場合の「知識とは感覚である」という定義は、その定義項(感覚)が、(一)「ある」を捉え、(二)「真」に到達する、という、プラトンがその箇所で提示している知識の二条件を満たす以上、真なる定義であるからである。とすれば、セドリーは、自らの信念体系の内部において、第一定義の枠内で真なる定義に到達できることを認めなければならないということになる。しかし、これは、第三定義が真なる定義に最も近いとか、第三定義が終わった後で読者自身が対話篇の外でさらに定義を改良するようプラトンが促しているという、セドリー自身の説と不整合を来す。第三定義まで吟味せずとも、第一定義の吟味のプロセスを検討するだけで真なる定義は得られるからである。したがって、セドリーの言う産婆術的解釈(maieutic interpretation)は、上述の意味において内在的不整合を抱えており、われわれは、そのような不整合を抱えている説を受け入れることはできない。確認すれば、このセドリー批判は、セドリー自身が自らの解釈として述べていることの内部で不整合を指摘したものではなく、テキスト上の事実を指摘し、その事実をセドリーもまた認めざるをえないということを示すことによって、セドリーの信念体系の内部での不整合を指摘したものである。

さて、以上のセドリー批判に対しては、次のような反論が予想される。それは「真実味(もっともらしさ)」(Plausibility)の問題である。この問題は、ユニタリアンと分断派との争いの問題とも密接に関わっている。

まず、「もっともらしさ」あるいは「もっともらしくないこと」について確認しておこう。すなわち、たとえ証拠が確かなものであり、その証拠にもとづく判断に間違いがなくても、或る研究者集団の内部で共有されている知識に照らして「とても本当とは思えない」と見なされることがらは受け入れる必要がない、という仕方で、論理的に整合的な事柄を却下される場合があるということである。上のセドリー批判の場合には、次の仕方で、「とても本当とは思えない」と却下される可能性がある。

すなわち、確かにテキストには上で見たような事柄が書かれていて、それらをもとに整合的に推論すれば、知性的な意味での感覚をプラトンがそこで示唆しているという結論は出てくる。しかし、プラトンが『テアイテトス』において知性的な意味での感覚を示唆しているなどということは、とても本当とは思えない。なぜなら、もしそうだとすれば、プラトンは『テアイテトス』においても、たとえば『国家』に見られる「魂の目」といった中期対話篇群のイデア論の文脈で現れる思想を前提し、それを読み取るよう示唆していることになるが、プラトンは、『パルメニデス』においてイデア論批判を行い、その後で書かれた『テアイテトス』においては、中期に提示したイデア論を破棄したか、あるは、すくなくとも、そのイデア論をいったん括弧にいれて議論を組み立て直しているはずだからである。そのように中期イデア論を前提せずに書かれているはずの『テアイテトス』の中で、中期イデア論を前提する事柄が論理的に整合的に出てくるとしても、そのような帰結は、プラトン解釈としてとても本当とは思えない。したがって、そのような論理的帰結を私が自分の信念体系の中に受け入れる必要はない。何かこのような仕方で、セドリーはわれわれが上で行った批判を却下する可能性がある。

さて、このようにセドリーから却下された場合、われわれとしてはどのように応ずるべきか。この応答は、ユニタリアンと分断派(もしくは中間派)という立場の違いの問題と密接に関わっている以上、現在のプラトン研究の枠組みを再考する上で極めて重要である。

セドリーからの想定される却下に対しては、次のように答えよう。われわれはセドリーと同じく中期イデア論を括弧にくくった上でセドリーを批判しているのである、と。すなわち、確かにわれわれは「比較考量の中に知識がある」「知識と感覚とは同じである」という二つのテキストとその文脈から、「比較考量の中に感覚がある」という結論を推論した。だが、われわれは、少なくともセドリーを批判する際には、それ以上のことは何も言っていない。単にテキストから第一定義吟味の枠内で真なる定義を導くことができると言っているだけである。そして、真なる定義をそこで導くことができることをセドリーも認めざるを得ない以上、セドリーは内在的不整合を来すと言っているだけである。だが、今述べた「認めざるを得ない」という点が目下の争点であろうから、この点についてもう少し詳しく説明しておこう。

まず、「比較考量の中に感覚がある」ということから、その種の感覚が何らかの種類の知性的感覚であるということはセドリーも認めるだろう(もしそれが知性的感覚ではないというのであれば、どういう種類の感覚なのかをセドリーは説明しなければならない)。重要なのは、その知性的感覚を、われわれは、セドリー批判の枠内では、『国家』に見られるような魂の目という事柄と結びつけてはいないということである。その知性的感覚を魂の目という事柄と結びつけた時点で、その解釈はユニタリアン解釈になり、中期イデア論を前提していることになる。だが、われわれはセドリーを批判する際にはそのようなことをしてはいない。とすれば、そのようにして導かれた知性的感覚について、それを「本当とは思えない」とセドリーが却下できる正当な理由はなくなる。われわれはセドリー批判の文脈では『テアイテトス』において中期イデア論が前提されているなどとは言っていない。むしろ、セドリーと同じく中期イデア論を括弧にくくった上で、すなわち、セドリーの属する研究者集団と同じ立場に立った上で、知性的感覚がテキストに含意されていると言っているのであり、その知性的感覚が真なる定義の要件を満たすことは確かであると言っているのである。そしてそのことが確かである以上、セドリーは第一定義吟味の枠内で真なる定義が導かれるということを認めざるを得ず、そうである以上、セドリーは内在的不整合を抱え込むことになる、とわれわれは言っているのである。

要するに、セドリーが『テアイテトス』に知性的感覚が現れることを拒否したくなるのは、それを認めればこの対話篇に中期イデア論が前提されていることを認めなければならなくなると思えるが、中期イデア論を括弧にくくって議論するという、セドリーが属する研究者集団の共通の前提に照らせば、そのようなことを認めるわけにはいかないからであろう。だからセドリー等は、『テアイテトス』に知性的感覚が現れることをとても本当とは思えないと言って却下するのであろう。しかし、われわれが上述のように、セドリーの帰属する研究者集団と同じく『テアイテトス』に中期イデア論を前提せずに、なおそこに知性的感覚が現れると言っている以上、その知性的感覚が現れることについて、それをとても本当とは思えないと言って却下できる理由をセドリーは持たない。それゆえ、他に何か正当な理由を見つけない限り、セドリー等が属する研究者集団は、『テアイテトス』に知性的感覚が現れることを本当のこととして受け入れなければならないのである。

以上により、セドリーの産婆術的解釈は内在的不整合を抱えているとわれわれは主張する。したがって、セドリーは確かに「言外の意味」(subtext)という、われわれにとって興味深い解釈を提案してはいるが、上述のわれわれの批判に対してセドリーが何かさらに説明を加えない限り、セドリーの解釈にわれわれが従う必要はない。
by matsuura2005 | 2005-03-28 18:44
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