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管理人 : 松浦明宏
白鳥の歌とスピリチュアル・ペイン
白鳥の歌といえば、シューベルト、ハイネ、フィッシャー・ディースカウ、ジェラルド・ムーアといった名前を思い浮かべる方が多いかもしれません。「水車小屋」、「冬の旅」に続く遺作集と言われているもので、シューベルトの三大歌曲集のうちの一つですね。
あるいはまた、庄司薫原作の映画「白鳥の歌なんか聞こえない」を思い浮かべた方もおられると思います。岡田裕介さんと本田みちこさんが出ている映画ですね。いずれにせよ、白鳥は死ぬ前に一声だけ鳴く、と言われることを念頭においてそれぞれの作品のタイトルがつけられたと考えておいて構わないでしょう。

白鳥の歌というのは、古代ギリシア哲学者プラトンの『パイドン』という作品に出てくる挿話で(もあり)、死を間近にひかえたソクラテスが弟子たちと霊魂の不滅について論じ合う中でソクラテスによって語られる話です。

「白鳥は、死ななければならないと気づくと、それ以前にも歌ってはいたのだが、そのときにはとくに力いっぱい、また極めて美しく歌うのである。それというのも、この鳥は神[アポロン]の召使いなのだが、その神のみもとへまさに立ち去ろうとしていることを、喜ぶからなのである。ところが、人間たちは自分自身が死を恐れているから、白鳥についても嘘をつき、白鳥は死を嘆くあまりその苦痛のために別離の歌をうたうのだ、と言っている。しかし、人々が考えてもみない点は、どんな鳥も、飢えたり、凍えたり、なにかその他の苦痛に苦しむときには、けっして歌わない、ということだ。伝説によれば、苦痛のために嘆きの歌をうたっていると言われている、ナイチンゲールとか燕とか仏法僧でさえ、そうではないのである。僕には、これらの鳥もかの白鳥も苦しみながら歌っているようには見えない。むしろ、僕が思うには、白鳥は神アポロンの召使いであるから予言の力をもち、その力によってハデスの国にある善いことを予知し、まさに死なんとするかの日には、それ以前のいかなる日々にもまして特別に歌い喜ぶのである。」(プラトン『パイドン』、岩田靖夫訳、岩波文庫、90頁)

白鳥が死の間際にひときわ美しい声で鳴くのは、肉体その他の苦痛のゆえにではなくて、死後の善き世界へ旅立つことができることを喜んでいるからだ、という話ですね。哲学講義の中でお話したように、ピタゴラス派の思想の主要部分として輪廻転生という考えやソーマ=セーマ説があります。肉体は魂の墓場であり、魂が肉体から離れること(=死)は善いことである、なるべくなら輪廻の輪の中から離れて二度と肉体の中へと戻らずに、永遠に幸福の島々で暮らすことが魂にとって最も幸福なことだ、という話でしたね。ソクラテスが白鳥の歌という挿話で語っていることも、何らかの仕方で、この種の話と密接に関わっていると考えても、それほど的外れではないような気がします。白鳥が死に臨んでそれを喜ぶというのは、どうみても、私には、魂が肉体という墓場から抜け出すことができることを喜んでいる、というふうに読めてしまうのです。

さてもしそうだとして、なぜこの白鳥の歌という話をふと思い出したのかと言うと、スピリチュアル・ケアに関する最近読んだ本の中にこうあったからです。

(末期がんなどの患者さんが) 「「早く死んでしまいたい」というのは、実は、本当に死にたいのではなく、「なんとしても生きていたい」という強い願望の裏返しと考えられます。どんな状態でもいい「生きていたい」。それさえできないから「神も仏もない、どうしてくれるんだ・・・」とYさんは怒っているのです。」(窪寺俊之『スピリチュアル・ケア入門』、三輪書店、64頁)

これも私の勝手な解釈かもしれませんが、私にはこのくだりはこう読めました。つまり、「もう死にたい」という人が、もし本当に死を望んでいるのなら、上に紹介した白鳥のように、死期の迫ったことを喜ぶはず。しかし、「もう死にたい」という人は、喜んでいるのではなくて「怒っている」。だから、その人は、本当に死を望んでいるのではなく、口とは裏腹に、生きることを強く望んでいる。死を受け入れた人、もはや思い残すことがなく、喜んで死んでいくことのできる状態になった人というのは、あの世で父や母や友人に合える、等々の「希望」を抱いており、そうした状態になった人は、もはや死ぬことについて怒りを感じることはない。「死んでも悔いはない」「もう死んでもいい」という気持ちと、「もう死にたい」という気持ちとは全く別のものだということです。希望の対象が違うのですから。

このことは、死病に罹ってしまった人以外の場合にもあてはまるのではないかと思います。何かさまざまな場面で精神的につらいことがあって、「もう死んでしまいたい」と思うことは、たぶん誰もが経験することではないかと思います。そういう場合でも、そのように思っている人は、実は死を望んでいるのではなくて、本当は生きていたいのです。生きていたいのだけれど、生きることが難しくなってしまった。生きていたいという「自分の希望をかなえるのが難しい」から、怒ったり悲しんだり苦しんだりしているのです。そうではないですか? 少なくとも私にはそう思えます。

そう考えると、精神的な苦しみゆえに自殺をすることは、その人が自分の本当に望んでいることに反したことをしていることになるのでしょう。その人が精神的に苦しんだり悲しんだりしている以上、それは生きたいという自分の希望がかなえられないということを意味し、そうであるからには、その人の本当の希望は、やはり、生きることであるはずだからです。自殺が善くないことであるとすれば、その理由は、その行為がおそらくは自分でも気づいていないであろうその人の本心に反した行為であるというところにあるのかもしれません。

このあたりは重要な問題点を含んでいるように思います。その人が実際に発話したり頭の中で表面的に思い描いたりしていることとは正反対のことがその人の本心であり、その本心は言葉や表面的な思考ではなくてもっと深いところにある。そして、その深いところにある本心を表しているのが感情である、ということになりそうだからです。もしそうだとすれば、人に対する「ケア」を行う場合に、何にケア(注意)すべきかと言えば、少なくともその重要な一部として、その人が何を言っているかということ以上に、その言葉をどのような感情とともに表現しているかということに注意を払わなければならないということになりそうですね。あの人は確かにこう言った、という言葉だけに注意を向けてその人の本心、意向、気持ちを判断することは、間違った結果をまねく可能性が高いように思います。

何か、最後は、一般的な精神的苦痛の話になってしまいましたが、それはひょっとすると、スピリチュアル・ペインやスピリチュアル・ケアというものは、終末期医療に特有の問題ではないということなのかもしれません。その必要性が最も先鋭化された形で現れる可能性が高いのが終末期医療の現場であるということなのかもしれない、と、現在の私には思えます。
by matsuura2005 | 2004-12-02 18:33
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