管理人 : 松浦明宏
生命倫理学講義4 - 義務論と功利主義 -

倫理理論:
 「何をなすべきか」という問いに答えを与えるもの。 あるいは、何らかの答えを正当化する(しない)ための根拠を与えるもの。

義務論:
 自分が何をすべきかを考える場合に、行為の結果を基準にするのではなくて、法的・道徳的義務あるいは動機を基準にして、それに従うことが倫理的に正しい振る舞いであるとする考え方。 結果がよいからそうすべきだと考えるのではなくて、それが義務だからそうすべきだと、答える立場。 結果の善し悪しによって行為の倫理的正しさを決めるのではなくて、動機の善し悪しによってそれを決める立場。 カント(1734−1804)の倫理理論が古典的な起源とされる。

・完全義務と不完全義務
  完全義務:それをしないと罰せられる義務。
   例:約束を守ること。
  不完全義務:それをすると褒められるが、しなくても罰せられない義務。慈善。
   例:通りすがりに見ず知らずのけが人を見つけたとき、その人を助けること。あるは、募金なども不完全義務の一つ。けが人を助ければ褒められるが、助けなくても罰せられない。募金すれば褒められるが、しなくても罰せられない。


人工妊娠中絶の場合、この完全義務と不完全義務との区別が次の議論に用いられている。妊娠二十三週目以前の胎児には、母体外生存可能性がないので生存権もなく、人格でもない。だから中絶してもよいという考えに対して、 Judith J. Thomson は、胎児に生存権があるとしても女性が子宮の利用を胎児に認めることは、功績的ではあるが拘束的ではない、と考える。後者の考えには、人格と人格という対等な者同士には拘束関係(完全義務)があるのに対して、保護者と被保護者という対等でない者同士の間には不完全義務しか成立しない、という仕方で、完全義務と不完全義務の区別が適用されている。

私見:
Thomsonのように考えた場合、胎児や子供の保護育成は、慈善活動の一種であることになり、「募金」と本質的に変わらないことになる。子宮の中の自分の子供に栄養を与えることと街頭募金が同じレベルで扱われている。


・自分自身に対する義務と他人に対する義務
カントは、上記の完全義務と不完全義務の他に、自分自身に対する義務と他人に対する義務という分類項目を加えて、計、四つの義務を区別している。
(1)自分自身に対する完全義務: 自殺(安楽死)をしてはならない。
(2)自分自身に対する不完全義務: なるべく自己向上をはかること。
(3)他人に対する完全義務: できないとわかっていることを約束してはならない。
(4)他人に対する不完全義務: 困っている人を助けること。


功利主義(結果主義)
行為の善し悪しは、正直や誠実といった内在的特質によって決まるのではなく、行為がもたらす結果によって決まる、とする道徳理論。古典的起源は、ヒューム(1711-1776)、ベンサム(1748-1832)、ミル(1806-1873)。行為の道徳的な正しさは、その行為がもたらす結果によって、たとえば快楽、友情、知識、健康といった、非道徳的(non-moral)価値の最大化によって決定される。 (なぜこれらが非道徳的といわれるのかというと、これらは、芸術、体育、学問といった、人間活動の一般的目標であって、道徳的義務のような明確な道徳的価値ではないから。ただし、反道徳的(anti-moral)と非道徳的(non-moral)とは区別しておかなければならない。)


功利の原理:「価値と反価値との可能的最大均衡を産出すべきである」(望ましくない結果しか実現されない場合には、「反価値の可能的最小均衡を産出すべきである」)
         例:「医師は医療費と患者の苦しみを最小化すべきである。」
等しく有効な複数の治療法の間に選択の余地がある場合には、患者の利益を最大化すべきであること、また、患者の医療費と危険とを最小化すべきであることを要求している。

・本質功利主義と選好功利主義: 
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・規則功利主義と行為功利主義: 
(下の画像をクリックすると、多少大きくなります)
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義務論と功利主義に関わる諸問題

(1)二重結果の原則
一つの行為が二重の結果を生み出すとき、
真の動機に従って責任を問われ、意図しなかった結果については責任を問われない、
という原則。

義務論では動機のよしあしを問題にするので、この二重結果の原則は義務論と密接に関わっている。

下記の四つの形で定式化される。
1.その一つの行為は、それ自体で、また、その結果とは別に、道徳的に悪いものであってはならない。
2.その悪い結果は、良い結果を生ぜしめるための手段であってはならない。
3.その悪い結果は、真に意図されるものではなく、単に許容されるものでなければならない。
4.その行為の悪い結果にも拘わらず、その行為を行うにふさわしい理由が存在しなければならない。

例:妊娠女性が子宮がんにかかっていた場合の中絶。
 この場合、子宮を摘出しなければ母体の生命を救うことができない。
 だが、それは、中絶を意図して子宮を摘出したのではなく、がん治療にたまたま中絶が伴ってしまうということ。
 中絶を意図したのではなく、がんの除去を意図したので、中絶については責任を問われない。

上の定式に即して言えば、
1.がんの除去を目的とした子宮摘出は、道徳的に悪くない行為である。
2.中絶すること(胎児の命を絶つこと)ががんの除去の手段なのではなく、子宮の摘出ががんの除去の手段。
3.中絶は、真に意図されたものではなく、単に許容されるものにすぎない。
4.中絶という悪い結果にも拘わらず、がんの除去というしかるべき理由が存在する。
ということになるだろう。

この二重結果の原則には、功利主義の立場から反論がでている。

上の例では、胎児の命を救うことを意図して中絶しなかった結果がんが進行した場合でも、
医師は責任を問われないことになる。なぜなら、
1.中絶せず、胎児の生命を救おうとする行為は、それ自体、道徳的に悪い行為ではない。
2.がんを進行させることが胎児の命を救うための手段なのではなくて、子宮を摘出しないことが胎児の命を救うための手段。
3.がんの進行は、真に意図されるものではなく、単に許容されるにすぎないものである。
4.がんの進行という悪い結果にも拘わらず、胎児の命を救うためというしかるべき理由が存在する。

なぜこのようなことが起こるかといえば、功利主義者によれば、
二重結果の原則が正しいように見えるのは、じつは、功利の原理を使って、より大きな幸福、より小さな不幸を選んでいるからである。
先の場合には、母体の救命がより大きな幸福であり、胎児の絶命がより小さな不幸と見られており、
後者の場合には、胎児の救命がより大きな幸福であり、母体の苦痛はより小さな不幸と見られている。
結局、どちらをより大きな幸福とみなそうと、二重結果の原則は、いずれの場合でも正当化できるような仕組みになっているのである。


(2)自律性概念の二義性 -カントの「自由」とミルの「自由」-
自律(autonomy)という概念は、古代ギリシアでは、政治的な概念であり、
「国や共同体が「自分で自分に法(法則=法律)を与え、それに従って行動する」」という「自治」を意味していた。
カントはこれを個人の場面へと転用し、「人間が、理性的存在者として自分で自分の行動の規則を決定する」という意味で用いた。
この自律性概念が、カントの言う定言命法「君の意志の格律が、つねに普遍的に妥当するように、行為せよ」にも反映されている。
この定言命法は、
1.他人からの命令に従うのではなくて、自分の意志に従って、自由に行動せよ。
2.自分の行動指針(格律)を持ち、それに従って行動せよ。
3.その格律は、つねに、普遍的に通用するものでなければならない(自分だけに当てはまるような行動指針では、たんなる「わがまま」になる)。
という仕方で理解することができる。
この定言命法に基づいて、
自分および他の理性的存在を「単に手段としてだけあつかわず、常に目的自体としても扱わなければならない」
という仕方で、人格を「自己目的性」を持ったものと考えた。

ところで、注意しなければならないのは、カント流の自律性概念と、カントに影響された功利主義者ミルの自律性概念とは
同じものではないということである。

すなわち、
「カントの自律性概念は、何か外的な目的に関わっている法というよりはむしろ定言的に自らを定める法としての自律性であるが、
この自律性概念が、人間の自己決定権、外部からのさまざまな制約から自由でいる権利を正当化すると解釈され、
その結果、自律性は『干渉されない権利』(a right of noninterference)・・・になってしまった」
(Jos V.M.Welie(p.164))

上村芳郎もこれと同趣旨のことを述べている)
「カント主義者の自由が、みずから真理を選びとるという意味での積極的な自由であるとするなら、
功利主義者の自由は、他者から干渉されないという意味での否定的(消極的)自由である。
・・・現代人が「自己決定権」を口にするとき、それはカント的な意味での「自律」であるよりは、
むしろ、ミルのいう他者に干渉されない自由を意味することが多いだろう。」(上村芳郎 p.166)

こうした自律性概念の違いに留意することは重要である。
というのも、患者の自己決定権、女性の自己決定権、等々が問題にされるときには、
ほとんどが、ミル流の自律性概念に基づいてその権利が主張されているからである。
それは、実質的には、患者が医師に「干渉されない権利」、女性が男性に「干渉されない権利」を主張することに他ならない。
従ってまた、先に挙げた、Judith J. Thomson女史の考え、すなわち、
女性が子宮の利用を胎児に認めることは、功績的ではあるが拘束的ではない、
という考えの奇妙さは、そのように主張することによって、Thomson女史は、
「女性が胎児に干渉されない権利」を主張している点にあるということになるだろう。

ミル流の自律性や自由は、干渉されない権利を主張することによって、
個々の人々を「引き離し」、人々を「孤独」へと追い込む。
この点は、インフォームド・コンセントなど、現在の医療界で流通している手続きの思想的背景を考える際に、再び言及することにする。



参考文献
森川功、『生命倫理の基本原則とインフォームド・コンセント』、じほう
加藤尚武、『現代倫理学入門』、講談社学術文庫
トム・L・ビーチャム/ジェイムズ・F・チルドレス、『生命医学倫理』(第三版)、永安・立木訳、成文堂
上村芳郎、『クローン人間の倫理』、みすず書房
Jos V.M.Welie, In the Face of Suffering, Creighton
by matsuura2005 | 2004-06-04 18:22
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