管理人 : 松浦明宏
生命倫理学講義3 - パーソン論 -
「人(パーソン)」とは何かという問題

この問題は、中絶、クローン技術、ES細胞研究などにおいて重要な位置を占める問題である。「人」をどのように規定するかによって、中絶の是非を決めたり、研究の是非を決めたりしてきたからである。
この問題を考えるにあたって、最初に留意しておかなければならないのは、次のことである。

受精卵⇒胚(embryo)⇒胎児(fetus)⇒新生児という変化は連続的なプロセスであり、このプロセスの中のどこに「人間」と「人間でないもの」との境界を定めるべきかの基準は、自然科学的事実の中にはない。むしろ、その境界を定めた人の持っている「思想的背景(考え方)」如何による。これは、言い換えれば、生物学的概念としての「ヒト」と道徳的概念としての「人」(人格)とを区別して、道徳的概念としての「人」(人格)によって「人間」か否かを区別する、という言い方もできる(上村芳郎(うえむら・よしろう)『クローン人間の倫理』、みすず書房、2003年、55頁)。


「思想的背景(考え方)」の例
・ローマカトリック教会:受胎(受精)の瞬間から「人」:受胎(受精)の瞬間に霊が注入されるため⇒キリスト教思想
・中絶に関するアメリカ最高裁判決(1973):妊娠二十三週から「人」:
 妊娠二十三週から母胎外生存可能性(viability)が生じるため中絶はできないが、
 それ以前は女性の自己決定権に基づいて中絶を禁止しない。
 ⇒女性の自己決定権・胎児の生存権・自律(自立)性⇒功利主義的自由主義を背景にしている
・トゥーリーのパーソン論、ピーター・シンガーの「人」概念:自己意識のあるものが「人」であり、
 胚や胎児に自己意識はないので「人」ではない
 ⇒ジョン・ロック(1632-1704)の「人格」概念(「理性と内省を持ち、自分を自分として考えることができる、思考する知的存在者」)
  エマニュエル・カントの、道徳的主体としての「理性的存在」⇒ボエティウスの人格定義(後述)
・ウォーノック報告:受精後十四日目以降の胚は「人」⇒ES細胞研究禁止:人の基本的構造を作る「原始線条」が現われるため
・ウォーノック報告:受精後十三日目までの胚:「大人や子供と同じ地位は持たないが、特別な地位を持ち、法律で保護されるべき」
・エンゲルハート:胎児は「人」ではないが、「可能的に人になりうる存在」として、二次的な「人格」を持つ。
          
ウォーノック報告に関する参考資料
「結局どこで人間が始まるかについて、いろいろな説があるのですが、
(ウォーノック報告は)キリスト教教義を間接的に受け入れた考え方でして、
魂の初源的なものが認められる段階、つまり人が痛がっているように見えるかどうかで
ある。それは受精の初期の過程では当然見られないので、神経系の組織が最初にできる
ところを見る。その意味づけとして、どこで切るかは、一番安全な上流で区切ることに
する。ウォーノック報告書に実際にこういうことが書いてあります「胚は痛みを感じ得ないだろうが、
この視点からすれば初期神経系の発生か、その活動の最初の発生時期で線引きをするのが妥当であろう。
前者であれば、神経管が閉じる受精後22日前後、後者は不明である。
イギリスの関連学会もいろいろ言っているが、原始線条が現れる14日をもって、ウォーノック委員会は線引きをする」」
(「ヒト胚の生命の萌芽としての取扱いの在り方」に関するヒアリング結果
(http://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/life/haihu24/siryou3-2-1.pdf
第12回生命倫理専門調査会(平成14年2月27日)議事概要抜粋、
発言 米本昌平 三菱化学生命科学研究所社会生命科学研究室長 p.7より転写(但し、括弧内は私の補足)。

この資料から、ウォーノック報告は、
「痛がる」という「魂の初源的なもの」と認められる「原始線条」が現われる14日を「人間」の始まりとしていることがわかる。

「ヒト胚は生きている子供や成人と同じ地位は持たないが、特別な地位を持つ」
(The embryo of the human species has a special status but not the same status as a living child or adult.)
(Department of Health(英保健省), Stem Cell Research:Medical Progress with Responsibility 2000,
(http://www.lucacoscioni.it/cms/documenti/donaldson_eng.pdf, 4.6.項 box 17 (p.38)より引用) )

この資料により、研究対象となる胚(受精後13日目までの胚)は、成人や子供と同じ意味での「人間」ではなく、
「人間でありうる可能性を持ったもの」(上村)ということがわかる。

・幹細胞研究を問題にしているウォーノック報告においては、
「痛みの感覚」(魂の初源的なもの)というキリスト教思想を背景にして、
それを反映した自然科学的事実「原始線条の発現」を以って「人」か否かの線引がなされる。
・中絶を問題にしているアメリカ最高裁判決においては、女性の自己決定権という「権利思想」(功利主義的自由主義)を背景にして、
それを反映した自然科学的事実「母胎外生存可能性」を以って「人」か否かの線引きがなされている。
・トゥーリーのパーソン論では、自己意識・理性という、
ロックやカント、ボエティウスに由来する人格概念に基づいて「人」か否かを規定している。

このように、各人が基づいている「人(人格)」概念はさまざまな思想的背景を持っていると見られる。
そこで、以下、Jos V.M.Welie (1998)に基づいて、人格概念を整理してみる。


「人格(パーソン・ペルソナ(person, persona))」概念の整理 -人格概念小史-
(1)仮面/役割としてのパーソン
パーソン(person)という言葉の厳密な起源はまだ確定されていないが、
もっともありそうな出所はエトルリア語のphersu (もしくはアラビア語のmask)であり、
これがラテナイズされてペルソナ(persona)になった。
このペルソナという語は、古代ローマ演劇の俳優がかぶる仮面の意味で用いられた。
ローマの大劇場は、俳優の声が非常によく通るようにできていたが、
最上部の席に座っている人たちは俳優達の表情を見ることができなかったので、
この問題を解消するために大きな仮面が用いられたのである。
この仮面が俳優の《役》と同一視されるようになり、
ここからペルソナが、社会的な舞台の上でその人によって演じられる《役割》を表すようになった。
実際、キケロ(前一○六—四三)は、どんな人でも同時に四つの異なる役割を務めていると考えた 。
一つは人道的特徴(humanity)に関わる役割、一つは個人的な特徴に関する役割、
一つは環境や状況に関する役割、一つは社会的・職業的立場に関する役割である。
ほとんど二千年後、非常によく似た説が心理学者ユングによって唱えられた。
(2)言語学上の同定(linguistic identification)
一つの劇場舞台の上に同時にいられるのが最大三人までだったことに対応して、
ローマの言語学者たちは、一人称、二人称、三人称という、
文法的な意味での三つの《俳優(players)》を同定するために《ペルソナ》という言葉を用いた。
同様に、帝国時代のローマ法の中では、person という言葉は、一つの法的な争いに関わる個々人を指すために用いられた。
これは、「その犯罪に関わった人物は四人いた」というような文の中で用いられる現代的な用法と異ならない。

(3)三位一体
アレクサンドリア会議(362 AD)において、父なる神・子なる神・聖霊としての神が互いに同格(vis-a-vis)であることを示すために、
ペルソナという語を導入することが決定された 。一なる神にして三つの神聖なペルソナ[位格]。
ただしそれは、一なる神の三つの《観点(aspects)》を示しているのではない。
三位一体という教説は、既に単なる役割としてのペルソナという理解を越えて進展していたのである。

(4)人間であることの本性としての人格
人間(the human being)は、キリストのように神的ではないけれども、他の生き物たちとは違って《精神(soul)》を与えられている。
人間のこの本性が、ペルソナという言葉で表されるようになる。しかし、単にそれだけではない。
ボエティウス(四八〇—五二四)によって初めて正式に与えられた人間性の定義によれば、
ペルソナは「理性的本性をもつ個々の実体」である(Persona est ”naturae rationabilis individual substantia”) 。
この定義では種よりも個人性の方がより強調されている。
後にトマス・アクィナス(一二二五/六—一二七四)は、パーソンという概念は、一つの本質にも一つの本性にも関わってはおらず、
むしろ、一つの本質の個別存在(subsistence)、つまり、
一つの本質がこの独特の存在者として存在するその様態に関わる概念であることを強調することになる。

(5)生得的な尊厳(inherent dignity)としての人格
他方、十二世紀初頭には、無名のノルマン人学者が、
人間が生まれつき持っている価値(ペルソナ)と、聖体の塗油式や信仰告白式から生じるその人の価値とを区別している。
ヘールズのアレクサンダー(±一一八五—一二四五)は、
ペルソナの定義の中に尊厳という要素を明示的に含めている。
すなわち、「ペルソナは、尊厳に関わる固有性(自分自身の特徴)によって、自分自身を区別するヒュポスタシス(あるいは実体)なのである」。
あるいは、より自由に翻訳すれば、パーソンとは、その価値ある存在によって特徴づけられる実体のことである 。
こうして、個別性と尊厳という意味が中世において融合した。
このことによって、ひとつの倫理的な共通分母でもある人間学的概念の展開が可能になった。
人間は、自らの《独自性(particulality)》、《個性(individuality)》を、自らの尊厳から得るということである。
また、これと同時期に、
法的権利を持つと同時に自らの行為について説明する義務をも持つ者としての《人(パーソン)》のための基盤が敷かれた。
この《権利と義務の主体》という意味が、後に、(《自然人》と呼ばれる個々人とは異なる)《法人(legal persons)》という概念へと展開した。

(6)関係性(relationality)としての人格
パーソンに関する上記の多くの意味にまとまりを見出すことができるとすれば、それは《関係性》概念かもしれない。
劇場の大衆との関係においてのみ、舞台上の俳優は仮面をつけ、現実の自分とは異なるキャラクターを表現する意味がある。
仲間や社会との関係においてのみ、個人は一つの社会的役割を果たすことができる。
自分の仲間とのかかわりにおいてのみ、その個人は尊厳を得ることができる。
父親・父なる神とのかかわりにおいてのみ、子供・子なるキリストは存在し得る。
要するに、個人がその中で生きている世界とのつながりにおいてのみ、その個人は有意味に存在することができる。
だが、一人の人間の個性・人格は共同関係性に等しいのだろうか。
トイニッセンによれば、伝統的には二つの答えがあり、一つは、人格は確かに関係性であるというものであり、
もう一つは、人間であるために関係性は重要だが、人間であるということは絶対的な性質(absoluteness) であるというものである。
前者の答えは、とりわけ、ブーバー、ハルトマン、ビンスワンガーによって与えられている。
ビンスワンガーによれば、関係的振る舞いに先立つ人間の《本質》というようなものはない。
関係的であることがまさに人間の本質をなすのである。
この立場の問題の一つは、人間性の本質が結局は二つの《極》に分かれることである。
つまり、私にとっての《そなたのもの》があるのと同様にまた、私にとっての《私のもの》があることになる、ということである。
その結果、上記の人間学者たちは、主観という言葉を、この関係性の《私》の側のために取り置くことになる。
明らかにこのことは、《人格》との関連で《主観》の身分についてさまざまな問題を引き起こす。
たとえば、どこにキリストの《主観性》があるのだろうか。
他方、シェーラーやグァルディーニに代表される第二の立場は、
人間がある関係の中へ入っていく根本的能力を認めているが、人間性が、他者との関わりに存するとは考えていない。
人間性は絶対的なものであり、それは、神から与えられた人間の魂が伝統的にそう考えられているのと同様である。
だが、この立場は次の問題を引き起こす。
すなわち、もし人間がいかなる意味においても欠けたところがなく完全な人であるとすれば、なぜ人間は、レヴィナスの語彙で言えば、
他者を《求める(long)》のか、という問題である 。
もし関係性が、人間のもっとも根本的で本質的な様態の構成要素でないとしたら、
なぜ仲間を作ろうとするのか。


以上、簡潔に人格概念の歴史を振り返ってみたが、このうち、私にとって説得的なのは、
最後の(6)関係性としての人格概念、中でもレヴィナスに定位する関係性概念である。
(これは、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」をも彷彿とさせる。)

(5)の生得的な尊厳(inherent dignity)としての人格については、たとえば、ニーチェのようなニヒリストなら、直ちにこれを否定するだろう。
ニヒリズムとは、一切が無であり、
世界が存在する意味も、自分が生きている意味も、ない、という仕方で、価値全体を否定する考えである以上、
人格を「価値」と関連づけて考えれば、ニヒリストには受け入れられないことは明白である。
しかし、上記末の「なぜ人間は、いかなる意味においても欠けたところがなく完全な人であっても、他者を求める(long)のか」
という問いは、有効であるように思われる。
人間は誰でも他者を必要としている、という事実は、自分が生きている意味などないと考える人でも、
認めざるを得ないように思われるからである。

また、このレヴィナス流の問いには、
人間性を何か絶対的なもの(他から切り離されたもの)と考える立場は答えられないように思える。
逆にまた、上記小史で著者ウェリーが提起しているビンスワンガー等に定位する関係性概念の難点として指摘しているものは、
たとえば、上村の次の発言を考慮すれば、答えることができるように思われる。

「「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちも人にしてやりなさい」(『マタイによる福音書』第七章)という命令は、
たとえば、借金の保証人になってくれと頼んできた友人に、その人の気持ちになって、いくらでもハンコを押してやれ、ということを
意味するとは限らない。なぜなら、イエスの言う「愛」はその人の「気持ち」になることではない]。・・・
愛とは、自分の一部として、自分と同じものとして他者とかかわりあうことだと言ってよいだろう。
だからイエスは、「自分と同じように愛せ」と、普通はできないことを、逆説的に命じている。
『旧約聖書』の律法のように、形式的に守らなければならない規則ではなく、徹底して、他者とかかわりあうことを命じている。
それは、たんなる「相互性」にとどまらず、他者と正面から向かいあうことである。」(上村上掲書、151-152頁)

私はキリスト教徒ではないので、イエスの言う「愛」がどのようなものであるかにはこだわらない。
むしろ、ここで言われていることを、自分なりに次のように理解する。
「相手の気持ちを理解すること」と、「自分と同じものとして他者とかかわりあうということ」とは、
上村の言うように、必ずしも同じことではない。
単に相手の気持ちを理解することを以って「関係性」(相互性)と解すれば、
単純に、「君がそう考えていることはわかるが、私はそう考えない」という仕方で、
「君」と「私」という上記ウェリーのまとめの「二極分離」に陥る。
しかし、関係性をそのようにとらえずに、自分と同じものとして他者とかかわりあうという意味に理解すれば、
それは、自分をその友人の立場に身を置いて、自分がサラ金から借金をしようとしている場面を考えたとき、
それが善いことかどうかを考える、という意味になるであろう。そして、そのような「自分」を見て状況をよく見極め、
借金すれば身の破滅を招くと思えば、保証人にはならず、借りてもよい状況にあると考えれば、保証人になる、ということになるだろう。
相手の立場に立つとは、その状況に置かれた自分を、
(保証人を頼まれている自分の気持ちとも頼んでいる自分の気持ちとも異なる)第三者の立場から反省的に捉えるということである
(これを上村のように、「神の視点」と考えるかどうかは、私にはどちらでもいい。
むしろここで神を持ち出さず、単に「第三者」といっておいたほうが、より中立的に話を進めることができるように思われる)。
いずれにせよ、このように考えれば、件の二極分離には陥らずにすむように思われる。

さて、もしそうだとすれば、関係性としての人格概念には、上記のレヴィナス流の説得的な利点が残されることになる。
すなわち、人は、完全な人であっても、他者を求める以上、関係性こそが人間の本質である、という考え方である。

この考えに基づいて、胎児や胚の場合の「人」概念を考えると、次のように考えることもできる。
すなわち、胎児も胚も本質的に母体を求めている、ということである。
胎児も胚も新生児も子供も、親を必要としているという点では同様である。

しかし、この考えは生物学的な要求と社会的な要求とを取り違えている、と言われるかもしれない。
この考えに従えば、犬や猫と人との区別がつかなくなってしまう。
犬や猫の子供や胎児も、親を必要としているであろうから。

この反論にどこまで答えられるのか、わからない。
しかし、この反論を念頭においた上で、なお、私にはこう思える。
身体的要求と社会的要求とは、特に、赤子の場合には未分の状態にあるのかもしれない。
よく泣きよく眠ることが「健康」の証拠であり、赤子の「仕事」と言われる。
(これは比喩的な意味でなのかもしれないが)。
そのように親に対して「要求すること」が赤子にとっての社会的な「役割(ペルソナ)」であると見ることができるとすれば、
その自然的生物学的要求は一種の社会的要求であると見ることもできる。
その意味で、赤子においては生物学的要求と社会的要求とはほとんど結びついている。
とすれば、この結びつきを胎児、胚へと移行させた、いわば極限というか収束点というか、
何かそのようなものを胎児や胚が持っていると理解することができるかもしれない。

もしそう理解することができるとすれば、親は、少なくとも、自分の胎内に子供がいるのではないかと思ったとき、
あるいは、それが試験管の中であろうと、受精卵なり胚なりの仕方で、
ともかくその存在が明らかになったときには、
その存在が存在を保つために「親」を必要としていることがわかった限りにおいて、
親はその要求に応答するのが自然である。
その意味で、胚も胎児も「人」であるということができる。
それが「人の子」である限りは「人」なのである。

ただし、さまざまな事情から、堕胎せざるを得ない状況があることも考慮しなければならない。
また、胚の研究を完全に停止してしまえば、医学上の進歩が阻害されることは明白である。

従って、第一義的には胚をも受精卵をも人とみなし、
副次的に、親の同意や経済事情等の状況をも考慮して、胚や胎児を堕胎したり、研究対象として容認するという、
ある種のダブルスタンダードをとるのが現実的である。

これは、受精後何日目・何週目までは人でなく、何日目・何週目からは人になるという仕方で、数値的に人概念を規定したものではない。
胚や胎児に「自己意識」があるかないかという意識・理性の有無にもとづく規定でもない。
胚に人権を認める認めないという権利問題をも前提していない。胚が母体を求めるのは、生きる権利があるから求めているわけではない。
キリスト教の教義も、すくなくとも私としては、前提していないつもりである(神といわずに第三者と言うことにより)。

と、ここまで書いたところで、一息つき、ニュースを読むと、次のようにあった。

アルツハイマー病になり、10年に渡って闘病生活を送ってきたレーガン元大統領が6日になくなったことを受けて、
「米上院の過半数を超える議員58人がブッシュ米大統領に超党派で書簡を送り、
多様な組織に分化する能力を持つヒトES細胞(ヒト胚(はい)性幹細胞)の研究に対する米連邦政府の規制を緩和するよう要請した。」
「ブッシュ大統領は01年8月に、ヒトES細胞の研究への連邦資金支出を、既に作り出された細胞株に限って認める方針を発表した。
書簡は、「連邦資金の適用対象は19株に過ぎず研究が制限されている」と指摘、
資金獲得が困難なため、新たな研究者の獲得も困難だと述べ、政策の転換を求めた。」
(http://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/medical/news/20040608k0000e030078000c.html より)

こうしたニュースを耳にすると、余剰胚に対する親の気持ちと、病気克服へ向かう研究者の気持ちとをはかりにかけた時に、
どちらが優先されるべきかは、微妙なところである。ただ、こう考えることはできるだろう。
たとえば、人間は動物や植物を食べなければ生きてゆけないけれども、それは無駄な殺生をしてもよいということではない。
同様に、研究を進め病を克服するためには胚を犠牲にすることがもっとも有望なのだろうけれども、
無駄な殺生に相当するようなことは避けるべきである。
by matsuura2005 | 2004-06-03 18:16
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