管理人 : 松浦明宏
生命倫理学講義2 -バイオエシックスの誕生と展開-
生命倫理学・バイオエシックスという言葉の成り立ちと定義
生命倫理学という言葉は、バイオエシックス(bioethics)という英語の訳語です。バイオエシックスという言葉は、ギリシア語で「生」を意味する「ビオス」(bios)と、倫理(学)を意味する「エーティケー」(ethike)に由来する、「バイオ」と「エシックス」という英語の合成語です。『バイオエシックス百科事典』(1995)の中で、ライクが行っている定義によれば、バイオエシックスとは、<生命科学(life sciences)と医療(health care)をめぐる道徳的問題について、道徳的な見方・意思決定・行為・政策も含め、さまざまな倫理学的方法論を学際的な場面で使用しながら考察する体系的研究>ということになります。

この定義について、一つ気になるのは、「バイオ」という英語の使われ方です。この英語の語源、ビオスというギリシア語の意味は、「人間の生」のことであって、「動物の生」のことではありません(life, i.e. not animal life zoe, but mode of life, manner of living)。

つまり、ギリシア語では、人間の生はビオス、動物の生はゾエー、というふうに区別されており、ビオスは、「生活様式」とか「生き方」といった意味で使われるのが普通だったわけです。ところが、バイオという英語になると、動物の生と区別されていたビオスが、動物の生の意味に使われるようになり、その意味が、生物学(バイオロジー)とか、生命医学(生体臨床医学)(バイオメディシン)といった言葉の中に入ってきているわけです。

したがって、バイオエシックスという造語もまた、そうした英語の意味を念頭において作られていると考えるのが妥当であり、その意味では、バイオエシックスは、「動物としての人間の生を対象とする諸科学」と「動物としての人間を対象とするヘルスケア」、をめぐる道徳的問題について、さまざまな倫理学的方法論を使用しながら考察する体系的研究、と定義されていることになるわけです。


このように、まず、言葉の成り立ちから見た場合に、バイオエシックスという新しい学問は、何かしら奇妙なところを持った学問であるといえます。つまり、バイオエシックスは、「動物としての人間の生命を人倫の場面で検討する学問」、と解することができそれはいわば、科学が進歩して、今ではかくかくしかじかの仕方で動物としての人間の生命を操作することができるようになったけれども、そのように操作することによって、何か倫理的な問題が生じることはないか、それを検討しようとしているわけです。

これがなぜ奇妙なのかといえば、科学的な場面での人の生命は、客観的・必然的な事柄を扱う学問の対象になるのに対して、人の生き方の問題は、少なくとも、必然的な事柄を扱う学問の対象にはならず、場合によってはさらに、それについて客観的な仕方で議論することさえ適切ではありません。

しかし、科学者や、一般に「学者」が議論に納得するには、何か客観的な証拠を要求する。その意味で、動物としての人の生の問題を人倫の場面で「議論」することは、原理的なギャップを抱えており、、そうした原理的なギャップを「バイオエシックス」という言葉がいわば体現しているように思えるのです。

その点を見るためも、まずは、主として『バイオエシックス入門』(東信堂)(以下、『入門』と略)の、特に、第一章と第十四章の記述にしたがって、バイオエシックスの始まりと現状を概観することにします。

バイオエシックスの始まり
バイオエシックスの始まりには、さまざまな要素がからみあっており、それら諸要素の複合的な展開としてバイオエシックスが成立したと考えるのが妥当であるように思えます。

バイオエシックスの成立を促した要素としては、
(1)宗教離れ、世俗化
(2)先端技術の進歩
(3)人体実験の暴露
(4)疾病構造の変化
(5)医の倫理
(6)消費者運動
という6つがさしあたり考えられます。

これらを別々に考察するのは事実上不可能なことであると思いますが、
以下では、話を整理するために、ひとつづつ見ていくことにします。

(1)宗教離れ、世俗化
1960年代には、産婦人科医のヘレガースを中心とする「受胎調節についての法王委員会」がつくられ、この委員会の多数意見として、「避妊は本質的に悪であるわけではない」とされた。しかし、1968年に発表されたパウロ4世の回勅「人間の生(Humanae Vitae)」では、その多数意見が退けられ、新しい科学的データによって結婚についての教会の考え方は影響を受けないとされるなど、避妊や結婚についての、カトリック教会の伝統的な立場が固持された。この回勅に、ヘレガースやダニエル・キャラハンは失望し、世俗的な立場でのバイオエシックスの構築へと向かっていくことになる。

その一つの結果として、ヘイスティングス・センター(キャラハン、ゲイリン)や、ケネディ研究所(ヘレガース)が設立された。これ以降、義務論的倫理学や功利主義的倫理学などに基づく、世俗主義的バイオエシックスが増えてくる。ビーチャムとチルドレスの『生命医学的倫理の諸原則』(初版、1973)や、ヴィーチの『医療倫理の理論』(1981)、エンゲルハートの『バイオエシックスの基礎づけ』(1986)などが、その代表格である。

(2)先端技術の進歩
1970年ごろ、ウイスコンシン大学医学部のファン・レンセラー・ポッターが「バイオエシックス」という言葉を発案した。ポッターの論文「生き残りの科学(the Science of Survival)」は、
現在でいう環境倫理学に近いもので、エコロジーなどを主として視野に入れるものであった。

1971年、ジョージタウン大学で生殖医学を研究していたヘレガースは、ケネディ研究所の設立と同時に、その一部門として、ポッターとは独立的に「バイオエシックス・センター」を作った。「人間の生殖や発達の観点から、医学や生物科学の進歩にともなう倫理的問題を、非専門家も交えて研究する必要性を痛感していたため」である。

1973年、コーヘン=ボイヤー論文によって、遺伝子組換え技術の原理が確立した。これに伴って、この新しい技術が有害な新生物を作り出し、環境へ悪影響を与えるのではないかというバイオハザードの懸念が生じた。その一つの帰結として、1975年アシロマ国際会議が開かれ、各種実験の規制案がまとめられ、科学者たちが研究を初めて自主規制し始めた。

(3)人体実験の暴露
新しい科学技術の進展に定位した動きと平行して、人体実験の問題も浮上した。
・ユダヤ人慢性疾患病院事件(老人患者に生きたがん細胞を投与した事件)、
・ウィローブルック事件(施設に収容されている精神遅滞児にウィルスを接種して肝炎を発症させた事件)、
・タスキギー事件
 (アメリカ公衆衛生局による研究のため、タスキギー市の梅毒患者が告知なしに病状の経過観察の対象にされた事件(1972年)。
 梅毒にペニシリンが有効であるとわかった後にも続けられていた)、
などがあげられる。

こうした人体実験の露呈や新技術への懸念の中、生命医学研究への倫理的対応が必要とされるようになり
・1974年 「国家研究法」が成立した。
これは、生命医学的(biomedical)研究の実験規制を目的とし、倫理学者など、医学の非専門家を中心とする「生命医学および行動科学研究における人間の被験者保護のための国家委員会」が作成した法律である。
この国家委員会によって、
・実験計画を審査する機関内審査委員会(IRB, Institutional Review Board)や、機関内生物安全委員会(IBC)の設置が義務化された。
・また、この国家委員会は、1979年に『ベルモント・レポート』を発表し、医学実験の倫理的諸原則を明らかにしようとした。この『ベルモント・レポート』が、同年に刊行されたビーチャムとチルドレスの『生命医学的倫理の諸原則』とともに、誕生したばかりのバイオエシックスに議論の枠組みを与えることになった。

(4)疾病構造の変化
日本では、1950年代以前には、死亡原因の上位は、結核などの感染症が占めていたが、1950年代以降、死亡原因の上位を、がん、心臓病、脳卒中という三つの慢性疾患が占めるようになり、現在に至っている。これは、1882年にコッホが結核菌を発見したことに始まる感染症克服の努力の一つの結果だが、この疾病構造の変化によって、医療のあり方が根本的に変わりつつある(変わることを余儀なくされている)。つまり、感染症を治すには特効薬があったが、慢性病を治す特効薬は、一般にはない。そのため、入院して治療し、それを治して、社会復帰する、といった感染症時代の行動パターンではなく、病気を抱えながら社会生活を送るという、いわば「障害者としての患者」という行動パターンが増えてきている。その場合、患者の生活全般にわたって、医師が価値判断を下すわけにはいかなくなり、患者自身の価値判断が、医療行為の内部に組み込まれることになる。


(5)医の倫理
伝統的には、「医療の質の善し悪しは、医療の専門家にしか判断できない」という考えのもとに、医療の専門職集団が形成され、医師の公的免許制が敷かれ、専門職集団によって医業が独占されてきた。この専門職集団に帰属する者は、医療技術だけでなく、医療行為の倫理性も守らなければならない。その根本精神は、古代ギリシア時代の「ヒポクラテスの誓い」に現れている。ヒポクラテスの誓いの一つに、
・自らの能力と判断に従って、病める者の救済のために医療を施し、病める者に対する害と不正を避ける、
という事項があるが、この「病める者の救済」、患者に対する「無危害」の原則、が医の倫理の根本精神である。

伝統的な医の倫理は、まずこの患者の救済という根本精神に忠実であることを求め、その他には、他の医師に対してとるべき態度が問題になるくらいであった。この傾向が、ごく最近まで、各国の医師の専門職倫理規定に受け継がれてきた。

この専門職倫理の持つ問題点の一つにパターナリズムがある。上掲のヒポクラテスの誓いにあるとおり、医師は「自らの能力と判断に従って」患者を救うために医療行為をするのであり、この医師患者関係には、分別のない子供と、すべてをわきまえ、子供のためになることを何でも決めてやることのできる絶対的権威をもつ父親、というイメージがたえずつきまとってきた。

こうしたことになる背景は、「医療の質の善し悪しは、医療の専門家にしか判断できない」という最初に触れた考え方にある。たとえば、ある医学研究者が、なんらかの新しい医療技術等を研究・開発した場合に、その研究の質の善し悪しを判断できるのは、言うまでもなく専門家である。そうした新技術の持つ倫理性を吟味するには、専門家の判断が不可欠となる。しかし、治験や研究の場面というよりはむしろ、診療や治療の場面で(これら二つの場面を区別することが難しいということもあるのでしょうが)、特に、患者や家族とのコミュニケーションが大きな割合を占める場面での「医療の質」については、患者や家族の判断の占める割合が増える。この点が、先に述べた疾病構造の変化とともにクローズアップされてきたわけだが、それは、疾病構造の変化以外にも、次に述べる消費者運動とも密接に関わっている。


(6)消費者運動
1950年代から、アメリカ社会では、黒人の展開した人種差別撤廃運動が盛んになっていた。
この公民権運動(civil rights momement)により、人々の目が、女性や消費者といった社会の弱者の権利に向けられるようになる。特に、60年代に入って、ケネディが教書(1962)の中で、安全である権利、知る権利、選ぶ権利、意見を反映させる権利という「消費者の四つの権利」をあげると、消費者運動は強力に推進されるようになった。その一つの結果として、医療もまた消費サービスの市場である以上、患者と医療者の関係のモデルは、消費者運動に見られる権利に合わせて変革されなければならない、と考えられるようになった。これに基づいて、医療者と患者は、各々、health care provider とhealth care consumerと捉えられ、伝統的な医の倫理による一方的な上下関係ではなく、「対等な水平関係」と解されるようになった。


バイオエシックスの現状
-原則主義、決疑論(カズイストリー)、物語倫理(ナラティブ・エシックス)、ケア倫理、徳倫理

(1)原則主義
ビーチャムとチルドレスは、
自律尊重(respect for autonomy)、無危害(nonmaleficence)、善行(beneficence)、正義(justice)の四つの原則を諸事例に適用する原則主義の方法を採った。ビーチャムとチルドレスが無危害の原則と善行の原則を区別していることは重要であり、この区別によって、レイチェルズの安楽死論は退けられる。つまり、レイチェルズでは「不作為」と関わりの深い無危害の原則と、「積極的行為」と関わりの深い善行の原則との区別が無視され、その結果、積極的安楽死が肯定されてしまうことになるが、これら二つの原則を区別すれば、そのような誤りを避けることができる。(cf. 『入門』(p.114-115 楔論法(wedge argument)(滑り坂(slippery slope)論法)と規則功利主義の論法))

しかし、その一方で、こうした原則主義は、多くの場合、実際の事例において対立する諸原則のうち、どの原則を優先すべきかについては何も言わない。

(2)決疑論(カズイストリー)
こうした難点を持つ原則主義へ一つの応答として、16世紀〜17世紀以来忘れ去られていた「決疑論(カズイストリ)」を復活させようとする動きが現れた。カズイストリ(casuistry)とは、「個々の事例(case)にかかわる」という意味に由来するものであり、原則よりはむしろ、個々の事例をその都度判断していく方法で議論を行うものである。原則主義が、原則から出発して問題を扱うのに対して、カズイストリは、事例から出発して問題を扱うということである。カズイストリは、問題を扱うためにある種の基準となる「典型的事例」を設定し、それとの「類比」(アナロジー)によって個々の事例を処理するという特徴を持っている。原則主義とカズイストリとの区別は、淵源をたどれば、古代ギリシアのプラトンとアリストテレスにさかのぼるとされる。プラトンは倫理学を理論的な学問の一つとみなしたのに対して、アリストテレスは理論(テオリア)と実践(プラクシス)とを区別し、実践の場面では、理論的知識(エピステーメー)よりはむしろ、実践的知識(フロネーシス)の方が重要であると考えた、ということである。

(3)物語倫理(学)(narrative ethics)
ところが、物語倫理(学)によれば、カズイストリーのように、考察の出発点を原則から事例へと転ずるだけでは不十分である。個々の事例には、他に還元しえない個人の物語が現われており、その意味で、個々の事例を(必然的であれ蓋然的であれ何らかの)「客観性」に還元すること、すなわち、それを「学問」として捉えることには難があるということである。倫理「学」とはいえ、それはいわゆる「学問」とはやや趣を異にする学問とかんがえなければならず、学問であってはならない学問という、やや奇妙な性格の学問なのである。原則主義に対する異論としては、上記のカズイストリーやこれへの異議をも含む物語倫理学の他に、フェミニズムに由来するケアの倫理学や、徳倫理学(virtue ethics)、性格倫理学(character ethics)がある。

(4)ケア倫理学
物語倫理学とも密接に関わるケア倫理学の特徴としては、フェミニズムが現代正義論に対して提出した次の問題提起が挙げられる。すなわち、原則主義において用いられる正義の原則は、権利に基づく推論を基調とする。この原則のもとでは、等しいもの同士の間で生じる不平等は不当とみなされるけれども、それは言い換えれば、等しくないもの同士の間で生じる不平等、たとえば、医師と患者、医師と看護婦、男性と女性、等々の、何らかの意味で違いのあるもの同士の間での不平等については、それを不当とみなさないということでもある。だが、何と何を等しいとみなし、何と何を等しくないとみなすかの基準は、男性によって決められたものであり、その意味で、正義という概念そのものが男性的な概念である。

「<何が正義にかなうか>という問いに主導される「正義の倫理」によれば、道徳の問題は諸権利の競合から生じるものとされ、形式的・抽象的な思考でもって諸権利の優先順位を定めることで問題の解決が図られる。」これに対して、ケアの倫理では、「<他者のニーズにどのように応答するべきか>という問いかけが何よりも重視され」、「文脈=状況を踏まえた物語的な(contextual and narrative)思考様式」が要求される。これまで後者の倫理が評価されてこなかったのは、それを正義の倫理のものさしを使って測定してきたからに他ならない。(以上は、川本隆史『現代倫理学の冒険』、p.66-68に基づく。)

こうしたフェミニズムからの批判が、原則主義的なバイオエシックスに対しても起こり、それがケアの倫理学という視点をバイオエシックスの中に導入することにつながった。

(5)徳倫理学(virtue ethics)、性格倫理学(character ethics)
他方、徳倫理学や性格倫理学と言われるものは、ペレグリーノとトマスマをその代表とする。ペレグリーノとトマスマは、原則主義の立場が患者の自律性等、患者の権利を強調しすぎることを問題化し、共同体主義的な徳倫理学をバイオエシックスに導入することを提唱する。この立場では、患者の権利というよりはむしろ、医師の人間としての徳性に目を向け、患者の善のために、備えるべき徳を医師が備えることによって、医の倫理を再興することを試みる。彼等もまた、古代ギリシャのアリストテレスや中世のトマス・アクィナスの倫理学に注目している
(For the Patient's Good  -The Restoration of Beneficence in Health Care, Oxford, 1988, The Virtues in Medical Practice, Oxford, 1993)。これは、患者と医師との信頼関係を構築するには、医師の徳性や性格が重要になってくるという考えに近い。

以上のほかにも、「生命の尊厳(SOL, the sanctity of life)」から「生命の質(the quality of life)」への移行を主張したジョセフ・フレッチャーによる状況倫理学などがある。

さて、以上、近年のバイオエシックスに見られるさまざまな倫理学を駆け足で見てきましたが、
おそらく、これらのいずれかの倫理学が一方的にすぐれていて、残りをすべて無視するべきである、という考え方をとるべきではないでしょう。むしろ、ビーチャムとチルドレスの『生命医学倫理』第五版において、性格倫理学や徳倫理学が従来以上に強調されるときに述べられることを参考にして言えば、以上に見られたさまざまな倫理学は、それぞれ、不十分な点を互いに「補完しあう」関係にあると考えるべきでしょう。なぜなら、各々の倫理学がバイオエシックスに導入されてきたのも、それまでのバイオエシックスには欠けていた「視点」にバイオエシックス自身が気づき、それを補完しながら成長を遂げてきたと見るのが妥当であるように思われるからです。

したがって、われわれとしては、これらの倫理学のいずれをも無視することなく、また、それらの倫理学が持つ欠点をも無視することなく、個々の場面で、もっとも注目するに値すると関係者がみなす倫理学、あるいは、それらの混合形態を、その都度、いわば新たに構築していくという態度が必要なのではないかと思います。
by matsuura2005 | 2004-06-02 18:15
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