管理人 : 松浦明宏
論文構想『テアイテトス』第二部メモ(2)
今日は、プラトン『テアイテトス』第二部について、最近考えたことを書いてみます。この正月にアップした論文構想「記憶と想起 -Plato Theaetetus 187b-201c」の続きです。
覚え書き、粗雑な研究ノートとして、気づいたことを書いておくだけです。理解されなかったとすれば、その責任はすべて私にあります。

先日、『テアイテトス』について、或る人と話あっていた時に、前に書いた「論文構想」の話をすると、その人からこう言われました。

「『テアイテトス』第二部では同一性(判断)が問題になっているのではないのか?」

つまり、『テアイテトス』第二部に出てくる「「5+7」=「12」だと思う」という判断や「遠くから見た或る人をソクラテスだと思う」といった判断は、「ソクラテス」や「或る人」等の同一性を問題にする判断であるように思えるのに対して、私が「論文構想」の中で述べていることは、それらを同一性判断ではなくて、『ソフィステース』に見られる類種判断とパラレルに考え、そのことによって、『テアイテトス』第二部にイデア想起の要素を見出すということだったので、上のような疑問が出たということです。

ただ、少なくとも私には、「「5+7」=「12」」に使われている等号(=)は、言葉の厳密な意味において同一性記号(identity sign)と言えるかといえば、そうは言えないように思えるのです。なぜなら、「6+6」=「12」とも言えるし、「4+8」=「12」とも言える、という具合に、「12」という答えになる足し算は一つとは限らないからです。実際、これと同様の例が『テアイテトス』の中に出てきます(cf.204c-d(但し、これは第三部です))。むしろ、「5+7」=「12」という判断は、「5+7」を「12」という類を構成するさまざまな要素の一つと見なすという判断であって、それはちょうどソフィスト定義において、ソフィストを製作術者の構成要素の一つと見る判断(「「ソフィスト」は「製作術者」である」)と同様である、と私には思えるのです。
「(テアイテトスが)遠くから見た或る人をソクラテスだと思う」という判断についても同様です。「(テアイテトスが)遠くから見た或る人」が、それを見ているテアイテトスに与える感覚印象は、その或る人の姿形の一つの断面に過ぎません。その或る人が横を向けば、テアイテトスに与える感覚印象は前と異なったものになります。そして仮に、その或る人をどの方向から見てもすべて「ソクラテス」だと判断した場合には、ある角度から見た場合の「遠くから見た或る人」と別のある角度から見た「遠くから見た或る人」とは、いずれも「ソクラテス」という一つの類の構成要素の一つに算入されたということになるでしょう。この意味で、「(テアイテトスが)遠くから見た或る人をソクラテスだと思う」という判断は、一種の類種判断であるように思えるのです。

要するに、「5+7」=「12」や「遠くから見た或る人」の例で問題になっているのは、言葉の厳密な意味での同一性ではなくて、何かぼんやりとしかわからないもの(「5+7」、「或る人」)を、何かはっきりとわかっているもの(「12」、「(よく見知っている)ソクラテス」)と結びつけるということであり、こうした結合のプロセスは、ソフィストとは何かと問われた時に、ソフィストという何かぼんやりとしかわからないものを、製作術者というはっきりとわかっているものと結びつけるプロセスと同等に扱うことができる、ということです。

もし同一性ということが問題になるとすれば、それは、「5+7」は何か?という探求活動や、「遠くから見えるあの人は誰か?」という探求活動を基礎付け、そうした探求活動を有意味たらしめるものが存在する場面である、ということになるのでしょう。たとえば、12というものがそもそも存在しなければ「5+7」は何か?という問いは意味を失います。従って、その問いが意味を持つためには、その問いに先立って12というものが存在していなければなりません。この場面で12の同一性が成立するのであって、この同一性は、「5+7」=「12」という判断における等号とは意味を異にするのです。この等号は結合記号であって、それが類種関係を意味することは先に見た通りです(なお、同一性については西洋古典学研究に発表した拙稿で述べましたので、詳しくはそちらをご覧ください)。

因に、一旦ソフィスト定義が終わった後で、それまでに語られたさまざまな言葉(ソフィストの種差)をひとまとめにしてソフィストの定義とするプロセスと密接に関わるのが、おそらく、第三部で扱われる「ロゴス」なのであろうという見通しを持っています。ソフィストとは何か?という問いに対して数々の種差を割り出すプロセスが第二部と密接に関わり、そのようにして割り出した種差を列挙して、例えば、「獲得の、交換の、商売の(中略)ゲノスがソフィストである」とするプロセスが第三部と密接に関わる、ということです。つまり、「獲得」、「交換」、「商売」と言った「諸部分」が統合されて「ソフィスト」という一つの「全体」が成立する、というこのことが、『テアイテトス』第三部に見られる部分と全体にまつわる話と密接な関係を持っているように思えるということです。

しかし、この点についてはいずれまた、ということにしましょう。今回は、第二部では同一性判断が問題になっているのではないかという問いに対して、必ずしもそうとは言えない、と答えたところまでで、一区切りつけたことにします。
by matsuura2005 | 2004-10-01 17:30
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