管理人 : 松浦明宏
哲学講義3 -哲学史概観-
前回は、哲学という言葉の語源を見ることで、哲学という活動のごく一般的な特徴について述べました。今回は、古代から現代までの哲学史を概観することで、それぞれの時代の哲学の特徴をごく大まかにつかんでおきたいと思います。


そのためには、『西洋思想のあゆみ』(有斐閣)が好適なので、
以下、これに基づいて説明します。
(特に断らない限り、以下の記述の「である」調の部分の大半がこの書に基づく記述で、
「です」「ます」調の部分の多くが、私自身の記述です。
また、以下では、後に詳しく見るギリシア哲学については特に簡略に述べ、
逆に、授業ではあまり触れなかった現代哲学に重点を置いています。)

1.古代ギリシア哲学
キーワード  理性主義:原理(アルケー):愛知
特徴
歴史上初めて「理性主義」と言える精神態度が生まれ、
以降、世界文明の一つの精神的基盤になった。
この時代に、ギリシア人の思考は、
生成消滅する多様な現象をその背後で支配する
普遍的な一なる「原理」(アルケー)の探求へ向かった。
この普遍的な一なる原理を探求することが、
おおまかに言えば、愛知(知を愛する)ということ。


2.中世哲学
キーワード  愛(アガペー)の哲学:キリスト教神学:教父哲学:スコラ哲学
特徴
理性の力と限界を理性自らが吟味し、
キリスト教という特殊な形をとって表現されている「普遍的な愛の理想」の実現に
努力しつづけた哲学。
愛という普遍的原理の発見により、いわゆる「かけがえのない個」が哲学の主題となり、
これが近世哲学においては自我意識とヒューマニズムというかたちで、
また、現代哲学においては実存哲学というかたちで、受け継がれていった。
「哲学は神学の下女(はしため)(ancilla theologiae)」という言葉からわかるように、
教父哲学(特にアウグスティヌスの哲学)によって確立されたキリスト教神学の教義を前提として、
その教義が正しいことを理論的に証明することが、この時代の哲学の主な役割だった。
これがいわゆる「スコラ哲学」である。
スコラ哲学は、キリスト教の教義に現れる諸概念をできるだけ厳密に規定、区分し、
古代ギリシア哲学者アリストテレスに由来する形式論理学を重んじて三段論法を多用し、
これによってその哲学に学問的な形式を与えようとした。
しかし、あまりにも細かい点にまで煩瑣な論証を行うことになったので、
スコラ哲学は別名「煩瑣哲学」とも呼ばれている。

 
3.近世哲学
キーワード  ルネッサンス:ギリシア哲学の復興:ギリシア哲学と中世哲学との緊張的調和:
特徴
ルネッサンスの到来とともに、哲学はキリスト教神学の支配を離れ、
神ではなく人間の自然としての「理性」へとその眼を向け変えた。
自然現象を支配する一なる普遍的原理を探求する理性主義が再びクローズアップされ、
この意味でギリシア哲学が復興した。
その一つの結果が近代科学の成立であり、言うまでもなく、これが現代科学へと発展し、
現代の一つの大きな思想的支柱ともなっている。
その一方で、近世という時代には、たとえば、
世界は永劫回帰する無時間的な秩序世界であるというギリシア的時間観念ではなく、
世界は終末へと向かって進む一回限りの出来事であるというキリスト教的時間観念に基づいて、
初めて「歴史意識」がもたらされた。
この「歴史意識」が、現代における生の哲学や実存哲学へと展開していくことになる。
したがって、近世哲学は、中世キリスト教思想の或る側面を排除し
或る側面を受容するという仕方でギリシア哲学を復興したのであり、
この意味でそれは、ギリシア哲学と中世哲学との「緊張的調和」の哲学であったと言える。


4.現代哲学
キーワード  実存哲学:科学哲学:理性主義の崩壊

・実存哲学の特徴 :人間の主体性の回復
近世哲学は人間の理性を再評価し、人々の意識を神の世界から自然世界へと向け変えた。
この理性主義が現代に普及し、人間の生活は技術化されることになった。
一面ではこの合理主義・理性主義は、
われわれの生活を便利にするという積極的な側面を持っている。
だが、その同じ合理主義は、他面で、大衆化・平均化という消極的な側面も持っている。
つまり、人間の生活が技術化されるとは、言い換えれば、
その技術を利用できる者は「誰でも同じことをする」ことができるということである。
ここで、「誰でも同じことができるようになる」とは確かに良いことなのだが、
それはまた、それをする人が「誰であってもいい」ということでもある。
その意味で、生活の技術化とは、
一面で「誰でも便利な生活を享受できる」という良い側面を持つと同時に、
「個人の存在意義が失われる」という悪い側面をも持っているのである。
これが大衆化・平均化ということの意味であり、
こうした没個性的側面をもあわせもつ科学技術的思想動向に対して、
かけがえのない個人の主体性の回復を主張するのが実存哲学である。
この思想の一つの典型がキルケゴールの次の言葉に表れている。
  「私は何をなすべきか、このことについてはっきりした考えを持つこと、・・・
  それは、私にとって真である真理を発見することであり、
  私がそのために死んでもいいと思えるような理念を見出すことである。
  いわゆる客観的真理の発見、哲学の全体系の考究と概観、
  そういう仕事がなんの役に立つというのか。」
   (キルケゴール『日記』一八三五年八月一日 より)
人間は、「理性という普遍的本質をはみ出た者」という意味で「実存」(existenz)であり、
死という自己の最終的なあり方において、単独者として神の前に立つ。
その時、人間は、自己のうちに自己の根拠を持つわけではない「絶望」
というあり方をしていることを知らされる。


・科学哲学: 科学的理性の限界の露呈
 近世哲学は、古代ギリシアから中世にかけて受け継がれてきた
アリストテレスの論証的知識の理念をさらに継承し、
知識を絶対に疑うことのできない真理の上に基礎付けようとした。
しかし、このような考え方には根拠がないことが
現代の科学哲学によって明らかとなった。

科学哲学の例としては、
・クーンの「パラダイム論」:科学的認識の枠組みの歴史的相対性
・クワインの「ホーリズム」:認識における諸要素の相互依存性
・後期フッサールの「生活世界」:ガリレオ以来の自然科学によって剥ぎ取られた質的世界の再考
があるが、ここでは、特にフッサールの「生活世界」について見ておくことにする。
そのためにはまず、イタリアの物理学者・天文学者で、ピサの斜塔の実験で有名な
ガリレオ・ガリレイからの引用を見ておく必要がある。

「物質つまり物的実体というものを考えるときにはすぐに、
それが、限界とあれこれの形をもち、ほかの物とくらべて大きいとか小さいとか、
あれこれの場所にあり、あれこれの時間にあり、動いているとか不動であるとか、
ほかの物体に接触しているとかいないとか、
一つであるか少数であるか多数であるかということを同時に想像し、
いかなる表象によっても、これらの諸条件から物質を分離することはできません。
しかし、それが白くあるのか赤くあるのか、苦いのか甘いのか、音を出すのか出さぬのか、
快い香りがするのか不快な匂いがあるのか、
このような諸条件・・・・は、われわれには基体に内在しているように見えるのですが、
基体の側からすれば単なる名前にすぎず、
・・・それゆえ霊魂を取り除くと、これらの性質はすべて除かれるであろうと私は考えています。」

この引用(特に下線部)からわかるように、
ガリレオは、世界から「質」を剥ぎ取り、「量」の側面からのみ眺めている。
このように、ガリレオ等に由来する近代自然科学は、
色や匂いや味などに満ちたわれわれの日常的世界に「数量化」という「理念の衣」を着せ、
質的世界を覆い隠してしまった。

フッサールの考えでは,自然科学の発達にともなって力を得てきた自然主義は,
結局は,方法的抽象に基づく数学的な「精密性」であり,
しかもこれのみを唯一可能な存在開示と見る方法的仮定によって、
本来無仮定であるべきはずの学の理念を変造している。


ところで、ここで『西洋思想のあゆみ』から外れて、
このフッサールの自然科学批判を支持する例として
「質量転化の誤謬」をあげておきましょう。

質量転化の誤謬
一円が小銭であることは、現在では誰もが認める。
また、一円にもう一円加えた二円も小銭である。
二円にもう一円加えた三円も小銭である。
実際、三円を大金という人が今の世の中にいるだろうか。
とすれば、四円も小銭、五円も小銭、・・・・1000万円も小銭、1億円も小銭、
世の中のお金はすべて小銭、ということになる。

この例は、
「一円」「二円」という「量」の問題と、「小銭」「大金」という「質」の問題とを取り違え、
いわば「質」を「量」と同一視することによって生ずる誤謬です。

この例一つ取り上げても、
「質」の問題と「量」の問題とは、カテゴリーを異にする問題であり、
上述の下線部にあるように、
「これ(数学的精密性)のみを唯一可能な存在開示と見る」自然科学は、
いわばカテゴリーミステイクを犯していることになるわけです。

この意味で、たとえば、
現代の医療現場で主流となっている
「証拠に基づく医学・看護学」(evidence-based medicine, evidence-based nursing)、
あるいは、「満足度調査」などは、反省を強いられるでしょう。
「満足」というのは「質」の問題であって、これを「量」の問題に置き換えて考えても、
少なくとも患者さんの立場からすれば、あまり意味がないからです。


もっとも、[これ以降は再び『西洋思想のあゆみ』からの記述です]
自然科学が自らの作業領域を
このように量的側面に限定することそのこと自体が悪いわけではない。
悪いのは、
そのように一面化された世界像こそが「客観的で真なる」世界であるという仕方で、
自らの作業領域の「優越性を主張すること」なのである。
そのように一面化された量的世界・客観的世界が、
他方で排除された質的世界・主観的世界よりも「優れている」と主張する「哲学的根拠」は
存在しないからである。
by matsuura2005 | 2004-02-03 16:22
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