管理人 : 松浦明宏
実物と映像(3) 自己知と想起
昨年の4月に「実物と映像」シリーズを初めて以来、二回書いただけで、しばらくこのテーマについて忘れていましたが、
最近、自己知に関する本を読んでいたところ、実物と映像というテーマは、自己知の問題とも重なる部分があると思うようになりました。
わたしたちは厳密には自分自身の姿を決して見たことがないにもかかわらず、なぜ、鏡に映った像を自分の像であるとわかるのか、という問題がありますが、この問題は、或る種の自己知の問題であると同時に実物と映像の問題でもあり、後に触れるように、イデア想起とも密接に関わっているように思えます。

まず、次の例を考えてみてください。幼児は、鏡に映った親の像が口を動かすと同時に自分の後ろから親の声が聞こえると、その鏡像の動きと発声の主との対応付けによってその鏡像が自分の親の像であることを知り、このことから、親の鏡像と一緒に映っている鏡像が自分自身の像であることを知る、ということは十分にありそうな話です。


もちろんこの例では、自分自身を知ると言っても、自分の身体的な姿についての話であって、自分の内面・心の話ではありませんし、自分だけが映った鏡像の場合も考えなければならないのでしょうが、今は、話を単純化するために、これらの違いをさしあたり無視して考えてみることにします。


さて、もし先の考え方が当っているとすれば、それは、私の見るところでは、類推による自己知の一種であり、たとえば、

他人の鏡像:他人の実物=自分の鏡像:自分の実物

と表現することもできるかもしれません。


この類推を通してその鏡像が自分の像であることがわかるのだとすれば、なぜ鏡に映った像が厳密には自分自身とは異なる姿をしているにもかかわらず、決して見ることのできない自分自身の像であることがわかるのか、ということの一つの説明にはなるかもしれません。とすれば、異なるものから実物を想起するということには、類推ということが密接にかかわっているということになるのかもしれません。


実際、プラトンの『パイドン』(72e−76a)において想起説が語られるときには、おおよそ次のような流れになっています。恋する人々たちは、自分の愛する者がいつも使っていた衣服を見ると自分の愛する者の姿を思い浮かべ、また、われわれは、たとえばシミアスという人の肖像画を見ればシミアス本人を思い浮かべる。これと同様に、われわれは、木材どうしや石材どうしなど、さまざまな等しいものを見て、等しさそのものを想起する。



これらがどのような意味で上記の類推になるのかはっきりしたことは言えないのですが、シミアスの肖像画とシミアス自身との関係や、恋人の衣服と恋人自身との関係の場合には、どちらかというと、先の例で言えば親の鏡像と親の実物との関係に近いところがあり、さまざまな等しいものから等しさそのものを想起するという場合には、自分の鏡像から自分の実物を想像することに近いところがあるように思えます。


というのは、確かに、肖像画や衣服の場合には、今目の前に見えている絵や衣服から、今目の前に見えていない実物を思い起こすという点では、目に見えるものから目に見えないものを想起しているとは言えるけれども、実物を既に何度も目の当たりにしたことがなければそういう想起は起こらないでしょうから。これに対して、等しさそのものの場合には、一度もそれを見たことがなくてもそれを想起しうるのであろう以上、それは自分の鏡像から自分自身の実像を想起することに近いように思えるのです。自分自身の実像をわれわれは決して見ることはできないにもかかわらず、それを自分だと思うというこの点で、まだ一度も見たことのないはずの等しさそのものを想起することと似ているというわけです。


恋人の衣服から恋人自身へという想起や、肖像画から実物へというタイプの想起は、既に経験知として持っているものについての想起であり、これが上記の親の鏡像から実物への想起に相当すると考えられます。この種のいわば経験的想起が雛型となって、この経験的想起からの類推によって、非経験的想起、つまり、自分の鏡像を見て決して見ることのできない自分自身を想起したり、等しいものどもを見てこれも決して見たことのあるはずのない等しさそのものを想起するということが起こるということなのかもしれません。プラトンの対話篇においても、この経験的想起から非経験的想起へという順序で話が進んでいることは重要であると私には思えるのです。その意味で、自分自身の実像を直接見ることができないという点は、イデアを直接知ることはできないことと密接に関わっているように思えるわけです。


ただし、先にも述べましたように、上の例では、自己知は、鏡像・実物とも、身体的なものと見るのが自然ですが、自分自身を知るという時には、身体というよりは自己の内面・心に定位して考えるのが自然であるということにも留意しなければならないと思います。その場合に、汝自身を知れ、思惟の思惟、神、神の似姿、反省、理性といった、哲学上の大問題群が現れることになるのでしょうか。いずれにしても、こうした諸問題をも念頭に置きつつ、自己知や実物と映像の問題を考えていかなければならないことは確かであると思われます。次回は、いつになるかわかりませんが、思惟の思惟や神の似姿という視点から実物と映像の問題を考えてみたいと思います。
by matsuura2005 | 2005-04-24 14:38
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