管理人 : 松浦明宏
慶応での研究報告会の感想
3月1日(水)、慶応義塾大学 21世紀COE人文科学拠点研究の報告会「プラトン「魂」研究の現状」に出席させていただきました。

第一部:プラトン研究の動向  報告者:納富信留(文学部・助教授)
 2005年9月、ギリシア・クレタ島で開催された「プラトン『ソフィスト』セミナー」
 2006年2月、イタリア・コモで開催された「プラトンにおける魂」学会
第二部:『国家』についての研究報告会

私は、一応、これでも『ソフィスト』研究者のはしくれのつもりでいますから、特に、現在の『ソフィスト』研究がどのように行なわれているのかに興味を持ち、ひさしぶりに東京の空気を吸ってきました。

この『ソフィスト』セミナーの名称は、
AD FONTES' seminar on Plato's Sophist
Crete, 18.-26.09.2005.
で、ラトヴィアの A Centre of Classical and Oriental StudiesであるAD FONTESによって、ギリシアのクレタ島で一週間にわたって開かれたこのセミナーに納富氏が参加し、その時の様子をお話していただけるという報告会でした(P.S. AD FONTESの紹介の仕方がこれでいいのかどうか自信がありません。ひょっとして不備があれば謝ります)。

報告会でいただいたプログラムを見ると、このセミナーには、Lesley Brown, Myles Burnyeat, Michael Frede, Eyjolfur Kjar Emilsson, Verity Harte, Paul Kalligas等が参加していました。『ソフィスト』の全体をいくつかのセクションにわけて、たとえば、
Session I 216a1-226a5: Preliminary definitions of the sophist
Presenter: Lesley Brown, Chair: Myles Burnyeat
という仕方で、個々の(おそらくは)研究発表が行なわれたということでした。

報告の中で納富氏が強調しているように私には見えた、このセミナーの内容の特徴として、

1.be動詞の意味用法についての研究はほとんど扱われなかった。
2.『ソフィスト』の中央部だけでなく全体を読む
3.分析的手法だけではうまくいかないのではないか、というところまでは確認されたが、
具体的にどのような新たな読み方があるのかについては、特に提案されなかった。

ということがあります。或る参加者が、be動詞について、コプラ、存在、述定云々の議論を始めたところ、バーニエットは、そのようなことを議論しても仕方がないという趣旨の発言をしたらしい。『ソフィスト』におけるbe動詞研究は、現在ではもはやアナクロニズムと見られているということですね。また、バーニエットは、『ソフィスト』の両端部と中央部とをどう関連づけるかが問題なのだ、と(報告会についての私の記憶によれば、セミナーの最後に)断定的に述べた、ということでした。

私自身が行なっている『ソフィスト』研究の方向性と、このセミナーで行なわれたと推測される議論の全体的な方向性とは、(もちろん個々の論点では異なるのでしょうが)、たぶん、それほどかけ離れたものではないという印象を持ちました。分析的手法では不十分であるという考えには賛成できますし、『ソフィスト』の全体を読み、両端部と中央部とを関連づけることが重要であると私も思います。

しかし、その一方で、こうも思いました。be動詞の意味用法の研究について、それを、コプラ、存在、述定、同一性、完全用法、不完全用法云々という、従来の枠組みの中で行なうことには、私も賛成できません。しかし、だからといってそれは、『ソフィスト』に現れるbe動詞について「とりあえず脇に置いておく」のがよいということではなく、むしろ、be動詞の意味用法について、これまでの枠組みとは別の枠組みを『ソフィスト』の中から見つけ出すことが重要なのだと思います。従来の研究は、『ソフィスト』以外のところに解釈の根拠を求めたために、いろいろと奇妙なことが起こったのだと思いますので。実際、『ソフィスト』の分割法に解釈の根拠を求めれば、be動詞の意味用法についてのアナクロではない新たな研究と、対話篇の両端部と中央部とを具体的に関連づける新たな見解の提案とは、連動すると思います。

報告会第一部後半で話題にのぼったイタリアの「プラトンにおける魂」学会では、魂の三分説、魂の不死性、自己知、想起説などが扱われたということでした。この学会は、地元イタリアの高校生(中学生?)も参加する会-イタリアでは高校から古典教育が行なわれているとのこと-で、プラトンの対話篇についての専門学会というよりはむしろ、プラトンという哲学者の考えていた「魂」とはどういうものかを、専門家が一般の方々に紹介する会(であると言ってしまっていいのかどうか、自信がありませんが)であるということでした。そのためもあって、発表はすべてイタリア語での発表だったそうで、納富氏もイタリア語で発表されたということです。この学会の参加者の一人、G. レアーレ(Giovanni Reale) は、イタリアでは「(プラトン研究の)カリスマ」だそうで、レアーレの「サインを求めて列ができる」とのことです。

この学会についての報告の中で、特に印象に残ったことの一つに、次のことがあります。これまで私は、クレーマー、ガイザー、スレザーク等に代表されるテュービンゲン学派と、レアーレに代表されるミラノ学派とをほとんど区別していませんでしたが、どうやら、テュービンゲン学派とミラノ学派とは、不文の教説の使い方について、立場が異なるようです。どう違うのか、あまりはっきり覚えていないので、いずれきちんと調べようと思っていますが、テュービンゲン学派は、不文の教説をドイツ観念論の視点、プロテスタントの立場から見る(?)のに対して、ミラノ学派は、不文の教説をプロティノス、トマス・アクィナスと結びつけ、プロティノスやトマスの中にプラトンの思想を見、また、カトリックの立場からそれを行なう(?)ということのようです。

この話を聞いて思ったのは、私が自分で行なった研究の中で、テュービンゲン学派が批判しているシュライアーマッハーというドイツ観念論哲学者・プロテスタント神学者の「対話篇のみ」路線にしたがって、『ソフィスト』の中央部からプロティノスに通じる不文の教説の読み方を見出した(と、勝手に思っているだけなのでしょうが)ことは、一体、どのような形で、テュービンゲン学派-ミラノ学派の考えの中に位置づけられるのだろうか、ということです。別に私の考え方をミラノ学派等の中に無理矢理位置づけようとしなくてもよいのでしょうが、ともかく、何やらこんがらがってよくわからなくなったというのが正直なところで、これについては、今後の検討課題ということになるのかなぁという気がしています。もっとも、今回のお話をうかがってもなお、テュービンゲン-ミラノ学派がプラトン研究というよりはむしろプラトニズム研究の集団であるという印象は変わりませんでしたけれど。

報告会の第二部は、2010年に東京で開かれる国際プラトン学会を見据えて、慶応で行なわれている『国家』ゼミでの議論の成果(今回はその一年目(第一巻と第二巻)の研究成果)を、東京学芸大の栗原氏をはじめ四人の方の発表を通じて報告する会でした。私が興味をひかれたのは、プラトンの対話篇にあらわれる「ミュトス」の意義についての議論でした。「オリジナル」とプラトンの創作によるミュトスとの対比によって、プラトンのミュトスの意味を探ろうとする考えに対して、そもそも「オリジナル」を把握すること自体が難しい(から、その方法は困難だ)という意見が出たり、十巻の「エルの神話」は、「死後」の世界の話なのではなくこの世の生の選択の話なのだという意見が出されたりするなど、さまざまなお話を伺うことができました(上の記述の中にもし記憶違いがあったとすれば、お許しください。最近、以前にもまして、もの覚えが悪くなってきました)。

プラトンのミュトス(神話)は、比喩(太陽の比喩、洞窟の比喩等)、アポリア(定義破綻等)同様、書かれている通りに受け取ってはならないというところまではわかるのですが(実際、『パイドン』末でミュトスが語られた後に、そのことが明記されています(文字通りに受け取るのは「知性が足りない」というくだりです))、では、具体的にどのように受け取ったらよいのかについて、結論を出すことは、現在の私にはできないというのが正直なところです。さしあたり、今回のお話をうかがって、今後の研究への示唆を受けたという感想を述べるにとどめます。

以上、長々と書いてしまいましたが、今回の報告会に参加して、さまざまな刺激を受け、勉強になってよかったと思います。
by matsuura2005 | 2006-03-03 22:53
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