管理人 : 松浦明宏
『テアイテトス』第二部 -エンノイアとしての記憶-
『テアイテトス』第二部についての私見です。以前は、他の対話篇を議論の中に入れて考えていましたが、そうしなくても、『テアイテトス』だけで、第二定義の破綻は回避できると思うようになりましたので、そのような書き方に改めてあります。

→と、この記事を書いた時には、こう書きましたが、その後、「真なるドクサ」の「真」性を言うには、やはり『パイドン』の想起説に見られる「等しさそれ自体」と「auta ta isa」、あるいは、『ソフィステース』のディアレクティケーなどを説明の補助として用いた方が、少なくとも、わかりやすいと思えましたので、再度、そのように変更しました。

記憶、想起という論点はそのまま保持されています。
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『テアイテトス』第二部 -エンノイアとしての記憶-

『テアイテトス』第二部においては、「知識とは真なるドクサである」というテーゼが吟味・論駁される。この議論の大半は、「知と不知との区別」、「あるとあらぬとの区別」、「思考上の取り違え」、「蜜蝋の比喩」、「鳩小屋の比喩」を通して、「虚偽のドクサとは何か」の探求に割かれる。その結果、知識とは何かを知るより前に虚偽のドクサが何であるかを知ることはできないとされ、あらためて第二定義の検討にとりかかる。その検討において「裁判官」が事例として引き合いに出され、裁判官は「真なる判断(ドクサ)」を下すけれども、犯行現場に居合わせたわけではないから「知識」を持っているわけではない。従って「知識」と「真なるドクサ」とは同じではないとされ、これをもって第二部の吟味・論駁が終わっている。

この第二部全体を見渡すと、偽なるドクサの成立の吟味に割かれる部分が多く、これにくらべて裁判官の例はきわめて簡潔に終わっている。第二定義が提出された直後に裁判官の例を出せば、直ちに第二定義を反駁できたはずであるにもかかわらず、なぜ偽なるドクサの成立可能性を詳しく探求したのか。この種の疑問は、『テアイテトス』第二部を読んだことのある人なら誰でも抱く疑問であろう。何のために作者プラトンは先の二つの比喩を出したのか、これがここで問われるべき問題の一つであり、この問題に対して私は、「記憶の二義性を示唆するためである」と答える。そのために、ここでは特に「蜜蝋の比喩」を採り上げる。まず、全体的な議論の流れを整理しておこう。

知識を真なるドクサであるとする第二定義を立てた(187b4-8)後、そもそも虚偽のドクサが成立しないかもしれないという考えが出され(187d1-8)、さまざまな仕方で虚偽の可能性が探求される。そのための一つの説明として出された「蜜蝋の比喩」においては、心の中の蜜蝋に刻印された印形と感覚対象とを結合するときに虚偽が生じ得る、という仕方で、虚偽の可能性が説明される(191c8-195b8)。しかし、そこで「ある人」(195c7 tis)が登場して、ソクラテスの口を借りて言うところでは、蜜蝋の比喩によれば、虚偽は思考(印形)と感覚との結合の場合にしか生じ得ないことになるが、思考と思考との結合においても虚偽は生じ得るのではないか(195b9-e4)。つまり、蜜蝋の比喩においては、人が思考している(思考の中に持っている)「十二」を思考している「十一」と結びつけることはありえないということになるが(195e1-8)、「五と七」を誤って「十一」と結びつける(五+七=十一)こともあるのではないか(195e9-196a8)。テアイテトスがこの計算間違いの存在を認めると(196b1-3)、蜜蝋の比喩のように、感覚と思考との結びつきではなく、思考と思考との結びつきにおいて虚偽の可能性を示さなければならないとされ(196c4-8)、それを示すために次の「鳩小屋の比喩」へと議論が進む(197a7ff.)。

以上の議論において重要なのは、蜜蝋の比喩の冒頭部で提示される(後述の)「エンノイア(思考の中だけで思い浮かべているもの)」と、議論中盤から破綻部にかけて「思考(蜜蝋)の中の十二」や「思考の中の十一」という形で現れる「思考(ディアノイア)」・「蜜蝋(エクマゲイア)」との異同である。エンノイア、ディアノイア、エクマゲイア、これら三者がどのような関係にあるのかを見るために、蜜蝋の比喩の提示部と破綻部をもう少し丁寧に見ておく必要がある。議論の都合上、後者から見ていくことにする。

ソクラテスは、思考している五と七(195e1-3 dianoeitai,6-7 en tei dianoiai echei)について、それらが合計でいくつになるかと問えば、計算間違いをして十一と答える人もいるし、正しく十二と答える人もいるのか、それとも皆が十二と答えるのかと尋ねる(195e9-196a8)。テアイテトスは皆が十二と答えるとは限らないし、もっと大きな数なら間違える人ももっと多くなる旨述べる(196b1-3)。その後、ソクラテスとテアイテトスとの間で次のやりとりが行われる。

ソクラテス: 確かに君の思っている通りだ。そこで、君によく考えてもらいたいのだが、その時には、蜜蝋の中の十二そのものを十一と思うこと(oiethenai)以外の何も起こってはいないのだね?

テアイテトス: どうも起こってはいないようです。

ソクラテス: そうなると、再び最初の議論に戻るのではないか。なぜなら、その状態にある人は、自分が知っているもの( ho oiden)を、これもまた自分が知っているもののうちの別のものであると思うわけだが、それは不可能だとわれわれは言っていたからだ。そしてまた、同じ人が同じことを知っていて同時にまた知らないということを強いられないためという、まさにこの点で、われわれは虚偽の思いなしなどないとせざるを得なかったからだ。

テアイテトス: まったくその通りです(196b4-c2)。

こうして、蜜蝋の比喩によっても虚偽の成立は認められないということになる。この問答においてまず注目すべきは、アポリアが生じると決定される際の理由づけ「自分が知っているもの( ho oiden)を、これもまた自分が知っているもののうちの別のものであると思う」ことが「不可能である」とされる部分である。なぜなら、蜜蝋の比喩の提示部の記述を念頭に置けば、それは可能であるという結論が導かれるからである。

「蜜蝋の比喩」が提示される時、次の仕方で「エンノイア(思考の中だけで思い浮かべているもの)」(191d7)という言葉が現れる。

「それ(蜜蝋)はムーサたちの母ムネーモシュネー(記憶)の贈り物であると言おう。そして、何であれわれわれが見たり聞いたりわれわれ自身で思い浮かべたりする(ennoesomen)もののうちの何をわれわれが記憶しようと思うにせよ、それら諸感覚や思い浮かべるもの(ennnoiais)にそれ(蜜蝋)をあてがって、それ(蜜蝋)へと刻印するのだと言おう。それはあたかも、指輪の形(semeia)を捺印する時のようである。また、一方で、何が刻印されるにせよ、それの形象が中にある限りは、それを記憶しており知識しているのだと言おう。他方で、何がぬぐい去られるにせよ、あるいは、何が刻印されえなかったにせよ、それを忘却し知識していないのだと言おう。」(Theaet.191d4-e1)

ここで言われる「思い浮かべるもの(エンノイア)」は、見聞きするなどの、五感による感覚とは区別されており、われわれが自分だけで(autoi)思い浮かべるものとされている。この意味で、「エンノイア」は、思考の中にのみ現れるものと見られる。われわれの例に即して言えば、(五と七とから)十二や十一を思考の中だけで思い浮かべるということである。

重要なのは次のことである。すなわち、右の引用においては、「エンノイア」は蜜蝋に刻印される以前のものとして語られているということである。「エンノイア」を蜜蝋にあてがうことで印形が形成される以上、この「エンノイア」そのものは蜜蝋の中の印形が形成される前に思考の中に何らかの仕方で存在しているということである。「指輪の形」はそれが何かに捺印されるより前に存在していなければならない、という言い方もできるだろう。この「指輪の形」が件の「エンノイア」(と感覚)に相当すると考えられる。するとエンノイアとは、蜜蝋の中の印形として刻印される以前にわれわれの思考の中に存在している(感覚印象以外の)「形」であるということになる。となると、たとえば、既に蜜蝋に刻印されている「五と七」を計算の材料として、そこから「十一」なり「十二」なりを思い浮かべた場合には、思い浮かべられているその「十一」や「十二」は、蜜蝋の中に刻印された印形と外界から入ってきた感覚印象以外に、どこかそれ以外のところからわれわれの思考の中へと入ってきている「形」である可能性があることになる。

とすれば、エクマゲイアの中に刻印されるという仕方で「記憶」され、そのことを以て「知識」とする以外の仕方で、そうした記憶や知識が成立する以前に、何らかの仕方で、われわれの「思考(ディアノイア)」の中には、何らかの「形(セーメイア)」が先在しているということになる。この種の「形」をディアノイアの中で思い浮かべることがエンノイアなのであり、この思い浮かべもまた或る種の「記憶」や「知識」と考えられる。なぜかと言えば、エクマゲイアの中で「形」になったもののことを「記憶」と呼ぶならば、エクマゲイアの外で「形」になっているものについても、それが「形」になっているというその限りでは、「記憶」と呼ぶことができるであろうから。そして、記憶されているということを「知識」と呼ぶならば、この種の記憶もまた或る種の「知識」と呼ぶことができるであろうから。

したがってまた、その場合には、先述の「知っているもの」を「知っているもの」と思うことはありえないというアポリアを回避することができることになる。すなわち、確かにエクマゲイアの中の印形同士については取り違えということがありえない以上、「知っているもの」を別の「知っているもの」と思うことはありえない。しかし、エクマゲイアの外にある感覚印象とエクマゲイアの中の印形との間には取り違えが起こりうるのと同様に、エクマゲイアの外にある「形(セーメイオン)」とエクマゲイアの中にある印形との間には取り違えが起こりうる。この意味で、「知っているもの」を「知っているもの」と思うことはありうる。エクマゲイアの外にある「形」も中にある「形」も、いずれも各々の仕方でわれわれが「知っているもの」であり、それら相互に取り違えが起こりうるのであれば、「知っているもの」を「知っているもの」と思うことはありうるということである。

「知らないもの」を「知っているもの」と思うことや、「知っているもの」を「知らないもの」と思うことはありえないというアポリアについても同様である。すなわち、エクマゲイアの中に印形があることを「知っていること」とするならば、エクマゲイアの外に形があることは「知らないこと」である。この時、述べたように、取り違えということがありうる以上、「知っているもの」を「知らないもの」と思うことはありうる。これは、逆にエクマゲイアの外にある形の記憶を「知っているもの」とし、エクマゲイアの中にある印形の記憶を「知らないもの」とした場合でも同様である。実際、「五と七」(「十二」)というエクマゲイアの中にある形から「十一」という間違った数を思い浮かべるということはおこりうる。この時の「十一」は、エクマゲイアの中にある「十一」ではなくて、エクマゲイアの外にあるエンノイアとしての「十一」なのである。

-------------------(以下、加筆部)--------------------------

だが、最後に残された問題として、「五と七」を「十二」(エンノイア)とする判断が真であり、それを「十一」とする判断が偽であると、どうして「さらに判断できる」のか、ということがある。これについては、たとえば、われわれの思考の中に入ってきているエンノイアとしての「十二」の根拠となるものがあって、それがその判断を真とする基準なのだと考えることもできるであろう。より厳密に言えば、「五と七」と「十二」との結合の正しさを保証するのが、エンノイアとしての「十二」の「根拠となる十二」である、ということになろう。

私がこのように言う背景には、『パイドン』においてエンノイアという言葉が想起説が語られる場面で用いられる際の「等しさそれ自体」と「auta ta isa」との平行関係を『テアイテトス』第二部のエンノイアに想定するということがある。auta ta isa とはつまりここでは「エンノイアとしての十二」であり、それ自体はエクマゲイアの中にある「五と七」、「四と八」、「三と九」等の計算材料としての記憶から、各々の場合に「十二」を思い浮かべるのと同様に、たとえば「五と五」、「四と四」、「三と三」というエクマゲイアの中にある記憶から、各々の場合に「等しい」を思い浮かべる、という種類のことである(感覚的事物としての「五個のリンゴと五個のリンゴ」、「四個のリンゴと四個のリンゴ」などから「等しい」を思い浮かべる場合でも、同様である)。それはまた、『ソフィステース』の総合の過程において、「多くのものどもを見渡して、一つのイデアが行き渡っているのを見出す」と言われる際の、「多くのものども(e.g. 五と七)」と「一つのイデア(十二(エンノイア))」との関係に近いという言い方もできるであろう。

auta ta isa の複数性は、各々の人の思考の中に入ってきている「その(諸々の)等しさ」のことであろう。そうした諸々の等しさが、各人に思い浮かべられているその限りにおいて、等しくないものとして現れることはない(74c1)ために、「等しさそれ自体」に準ずるものとして扱われているのであろう。また、総合の過程において見出される「一つのイデア」は、それが「イデア」と言われていることからすれば、等しさそれ自体に相当すると思われるかもしれないが、おそらくはそうではなく、むしろそれは、auta ta isaに相当するものであろう。なぜなら、もしわれわれの現在の想定が正しいとすれば、それは、「われわれの思考の中に思い浮かべられている限りでの一なるイデア」であって、「五と七」から「十二」を思い浮かべるという場合の、エンノイアとしての「十二」に相当するものであるはずだからである。『パイドン』の「auta ta isa」、『テアイテトス』第二部の「エンノイア」、『ソフィステース』の総合の過程の「一なるイデア」は、極めて緊密な関係にあるということである。「〜自体」と言われるいわゆる「イデア」は、むしろ、その「思い浮かべ」の妥当性を保証する「根拠」となるものであり、それはわれわれの思考の中にはない。そのように、われわれの思考の外にあって、われわれの思考の内部で、しかも、エクマゲイアに刻印される以前に、思い浮かべられるものについて、それが正しい思い浮かべであることを根拠づけるものが、「十二それ自体」、「等しさそれ自体」なのであろう(あるいは、ここに「善」、「適切さ」といったものがかかわっているのかもしれないが、ここではその点についての考察には立ち入らない)。

いずれにせよ、「五と七」を「十二」とする判断が「真」であるのは、そのエンノイアとしての「十二」を思い浮かべたことの正しさを根拠づける「十二それ自体」が、われわれの思考の外に存在していて、その結合判断の正しさを保証しているということであるように思われる。

このように考えれば、偽なるドクサと真なるドクサの成立可能性だけでなく、なぜその判断が真なる判断なのかをも説明することができるであろう。そして、そのようにして、それが真であることが保証されたドクサが知識であるということになるのだろう。

-------------------(以上、加筆部終わり)--------------------------------

 こうして、第二定義は、「知識とは根拠を伴うエンノイアとしての真なるドクサである」とすることによって保持できるであろう(ちなみに、これは同時にまた第三定義の保持にもつながるだろう。第三定義における「ロゴス」を上述の意味での「根拠」と考えれば。)。別言すれば「知識とは根拠を伴うエンノイアとしての記憶である」という言い方もできる。これらは第一定義「知識とは感覚である」における定義項を「思考の中の感覚」と解することによって第一定義を保持できたのと同様に、第二定義の定義項についてのわれわれ自身の理解を示したものである。したがって、作者プラトンは、第二定義については、「エンノイア」という視点の導入によって読者自身が定義破綻のアポリアを自ら解決することを意図していたものと解される。すなわち、先に見たソクラテスの発言「君によく考えてもらいたいのだが、その時には、蜜蝋の中の十二そのものを十一と思うこと(oiethenai)以外の何も起こってはいないのだね?」という発言における「十一と思うこと」は、この発言の付近の文脈からすれば、「エクマゲイアの中の印形を思い出すという意味の記憶(想起)」とも解されうるのと同時にまた、蜜蝋の比喩の提示部の記述を念頭に置けば、「エクマゲイアの外(われわれの思考の外)の形を思い浮かべるという意味での記憶(想起)」という意味にも解されうる。「思うこと」や「思考(ディアノイア)」という中立的な表現を用い、二義性を持つ仕方でソクラテスに問いかけさせることによって、プラトンはわれわれ読者自身がそれをどちらの意味に解するのかを試している。あるいは、文脈上は一方の意味に解するのが自然であるような仕方で中立的表現を用いてアポリアを導くことによって、読者自身が他方の意味に気づくかどうかを試している。これがつまり、私の見るところでの、『テアイテトス』第二部の蜜蝋の比喩における「試し」である。
by matsuura2005 | 2005-12-04 07:24
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