管理人 : 松浦明宏
限定(ペラス)と無限定(アペイロン)
プラトンの対話篇に見られる限定(ペラス)と無限定(アペイロン)に関する考察を、研究ノートとして書きます。

先日の高橋尚子選手ではありませんが、拙著出版に向けてそろそろ「ラストスパート」しなければならない時期に入ってきました。高橋選手ほど見事なスパートをかけることができるかどうかわかりませんが、頑張ってみます。本当の勝負は、12月の中旬に入ってからということになりそうで、またもや、締め切り(12月末)直前に「駆け込み」ということになりそうな気配が漂ってきました。しかし、こうなった以上、集中力を発揮して、500メートル先のゴールに5秒で駆け込むくらいの気持ちを持つしかありませんねぇ。

というわけで、ばたばたしながら書いた文章なので、読みにくいとは思いますが、今の私の考えをまとめたような文章ですので、気が向いたらお読みください。

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「無限定」というものを目で見たり手で触れたりすることはできないのでしょうから、こうしたものがもしあるとすれば、それは思考の対象でしかないように思えます。プラトンの『ピレボス』において、この「無限定」の性格として、流動ということが挙げられていると考えて構わないでしょう。

他方、プラトンの「イデア」には恒常不変性が備わっていて、常に定まって動かない性質があり、これを「限定」と呼ぶことができるのかもしれません。しかも、プラトンの「イデア」は、五感の対象ではなく、やはり、思考のみの対象とされ、その意味では、無限定と同様であると考えられます。無限定も限定も思考のみの対象であることに留意することが重要です。

『ピレボス』においてはまた、「ある」と言われるものは、一と多、限定と無限定とから成るという趣旨のことが語られています。これは一体どういう意味なのでしょうか。『ピレボス』において限定と無限定について語られる時、ディアレクティケーの手順が要約的に語られます。そこで、このことをヒントに、ただし、『ピレボス』のそこでの記述に即した説明は別稿で行い、ここでは一つの思考実験として、『ソフィステース』や『パイドロス』で示されるディアレクティケーに定位して、限定と無限定について考えてみます。

『ソフィステース』等に定位するといっても、それほど細かいことを書くわけではなく、簡単に言えば、私の言いたいのは、次のことです。つまり、ディアレクティケーの総観の過程で「多くのものに共通する一つのイデアを見出す」という形で考えられている「一つのイデア」は、その領域内の「すべてのもの」に当てはまる特徴である以上、それは「限定しない」性格を持っています。他方、ソフィストに「固有のあり方」と言われるものは、ソフィストの特徴を「限定する」性格を持っている。ソフィストにしか当てはまらない特徴と、ソフィストと哲学者に共通の特徴とは、限定という観点からみれば、正反対の方向性を持っているわけです。

ここでは、あまり詳しく述べられませんが、上の着眼をもとにして、ディアレクティケーの成立根拠というものを想定した場合、一方には限定というものがあり、他方には無限定というものがあるのではないかと考えられる、ということになるのです(限定と無限定という対の他に、自体性と関係性という対も重要ですが、ここでは省略)。限定も無限定もディアレクティケーの成立根拠となる「類(ゲノス)」の中に算入されるということです。

ここで、先に、無限定の特徴として流動ということを指摘しましたが、すると、これと対照される限定の特徴は、静止なのでしょうね。限定は無限定の反対なのですから。となると、『ソフィステース』の中央部で、万有は流動と静止の両方共であると哲学者は言わなければならない、と語られるのは、ひょっとすると、『ピレボス』で限定と無限定という言葉使いとなって現れているものなのではないかとも思えてくるわけです。

『ティマイオス』では、おそらくこの種の対が、「範型イデア」と「場(コーラー)」という語彙で表現されているのでしょう。と、私は思います。範型イデアは恒常不変性を持ち、静止、形相(の一種)という性格を持ったものと考えておいて構わないのでしょうし、他方、「場」は、質料的、流動的なものと考えておいて構わないのでしょう。しかも、『ティマイオス』ではこの「場」は、「範型イデア」と同じく、感覚によってはとらえられないとされているのですから、その意味でも、何かしら、「無限定」というものに近いものを感じるわけです。

『テアイテトス』第二部で虚偽の成否が論じられる時に一言だけ言及される事柄として、「真なる仕方での虚偽」というものがあります。これについては、いかにも含みのありそうな仕方でソクラテスに語らせるだけで、原文ではほとんど何も説明されていないため、何とも言いがたいところがあるのですが、私には、これは、無限定への示唆とも受け取れるなぁと思えます。「真なる仕方で」というのは、おそらく、「思考のみの対象となるものの世界で成立する」という意味であり、その世界にもし「場」や「無限定」や「流動」というものがあるとすれば、当然そこには「虚偽」(異なり)ということもあるはずだからです。常に動いてとどまるということがないというこのこと自体は、『テアイテトス』第一部でヘラクレイトス説が提示される際に現れることですが、それは、おそらく、思考のみの対象の世界にも成立しているということです。実際、『パイドロス』や『法律』では、魂は常に動いてとどまることがないという仕方で、動の原理として言及される以上、常に動いているというこのこと自体が、プラトンにとって何か否定的なものと考えられていたわけではないということは確かなようです。ただし、ここで言う「魂」とは、われわれ人間の魂というよりはむしろ、たとえば、『ティマイオス』の宇宙霊魂や、『ソフィステース』中央部の「ある」に備わっているとされる魂のことで、それはつまり、われわれの思考というよりはむしろ、思考の「対象」の側に備わっている魂と考えた方がよいと思います。

別の言い方をすれば、『テアイテトス』第一部に見られるいわゆる「ヘラクレイトス批判」というのは、万有に静止したもの(限定、イデア)が一切ないという考え方をする人々(ソフィスト系の人々)にとっては「批判」になりますが、万有に静止と流動の両方があると考える人々(哲学者系の人々)にとっては、単に、無限定の状態を描写したにすぎないものとなり、その人々(哲学者系)への「批判」とはなりません。同じ事柄が、それを主張する人の考え方よって、その意義を変えるという言い方もできるでしょう。

いずれにせよ、上のように考えた場合には、「ソフィスト」と「哲学者」との違いにも限定と無限定ということは密接に関わっているということになるのでしょう。つまり、ソフィストと哲学者との対を、単に、各々「動き」(万物流動)と「静止」(イデア)という対に対応させて考えるのではなくて、ソフィストは「感覚世界」(物質世界)に目を向けているのに対して、哲学者は「思考のみの対象の世界」に目を向けている、という仕方で考えるのがよいということになるのでしょう(この点は、先にアップした「実物と映像(5)」にも述べました)。なぜなら、思考のみの対象の世界にも「流動」ということはありうると見られる以上、ソフィストと哲学者の区別を説明するには、「動き」と「静止」という区別は不適切だからです。そうでなければ、私には、プラトンが「限定と無限定」、「静止と流動」、「範型イデアとコーラー」というような対を、おそらくは、哲学者の発言として持ち出さないと思えます。


P.S.
「肉眼で見えるもの」について思考するということはいくらでもありうる以上、いわゆる感覚世界も思考の対象でありうるわけで、ソフィストが思考の対象としているのはこれでしょう。しかし、感覚世界は思考の対象でしかありえないものではなく、文字通り、感覚の対象でもありえます。これに対して、「ある」、「同」、「異」等、『テアイテトス』第一部末に出てくる「共通のもの」は、感覚の対象ではありえず、思考の対象でしかありえないとされます。そういう意味で、哲学者が思考の対象とするのはこうした「共通のもの」なのでしょう。『国家』篇に明記される「魂の目の向けかえ」というのも、このあたりの事情と密接に関わっていると思います。思考の対象でもありうるものから、思考の対象でしかありえないものへと、魂の目を向け変える、ということです。
by matsuura2005 | 2005-11-22 17:16
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