管理人 : 松浦明宏
たまには読書 -死と哲学者の言葉の力-
以下は、数年前、臨床倫理関係の或るメーリングリストに投稿した拙文です。既に以下の文章を読んだことのある方もおられ、その方にとっては「再掲」ということになりますが、ほとんどの方はまだ御読みになったことがないと思います。

そのメーリングリストは非公開ですので、以下の文章に対する他の方々の返信をここに掲載することはもちろんできませんが、自分の書いた文章を掲載することは差し支えありませんので、そうします。既に掲載済みかと思っていたら、まだ載せていなかったことに気がつきました。
メーリングリストの性格上、下記「たまには読書(1)」への返信者の名前や具体的返信内容を伏せた上で、これにたいする私の返信「たまには読書(2)」を掲載します。


---------------(たまには読書(1))------------------------

東北大の松浦です。
以下はヘレニズム時代の哲学者エピクロスの言葉です。
このMLの最近の話題(XXXXXX)とはあまり関係ありません。
突然書いてみたくなったので書いてみました。
有名な箇所なので、ご存知の方も多いと思います。
時間と興味のある方はお読みください。

 「死について」

「死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。
というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如
だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく
認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれる
のである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加え
るのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、
生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとって
は、生きることに何ら恐ろしいものがないからである。それゆえに、死は恐ろしい
といい、死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、
むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしい
のである、という人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのない
ものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに
悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いものの
うちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもない
のである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に
存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きている
ものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているものの
ところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないから
である。・・・だが、多くの人々は、死を、あるときは、もろもろの悪いもののうち
の最大なものとして忌避し、あるときはまた、この生におけるもろもろの悪いもの
からの休息としてむなしく願っている。しかし、知者は、生を逃れようとすることも
なく、生のなくなることを恐れもしない。なぜなら、知者にとっては、生は何らの
煩いともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われても
いないからである。あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、
口にいれて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを
楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。」
       (エピクロス『メノイケウス宛の手紙』より(岩崎訳に基づく))


上のエピクロスの文章と
このMLでのこれまでのいくつかの議論とを読み比べて思ったのですが、
哲学者というのは、哲学者でない人に向かって、
具体的な行為指針を提供する人のことなのか、
抽象的ではあっても心の支え(心の指針)になるものを提供する人
のことなのか、どちらなのでしょう?(両方だと言われそうですが・・)

私は、どちらかと言うと後者を提供するのが哲学者の本領だと思うのですが、
最近哲学者は前者の指針を提供することを要求されているように思えます。
私が戸惑っているのはこのギャップなのかも知れません。

最近のこのMLの議論に水を差してしまいました。聞き流してください。

---------------(たまには読書(1) 終わり)------------------------

以上の内容、特に、

「哲学者というのは、哲学者でない人に向かって、
具体的な行為指針を提供する人のことなのか、
抽象的ではあっても心の支え(心の指針)になるものを提供する人
のことなのか、どちらなのでしょう?・・・
私は、どちらかと言うと後者を提供するのが哲学者の本領だと思うのですが、
最近哲学者は前者の指針を提供することを要求されているように思えます。」

という部分に対して、癌が再発した患者さんの友人(以下、Xさん)の方から、
哲学者は、こうした人々に向かってどのようにどんなことを言うのか、という趣旨の返信がありました。これに対する私の返信の一つが以下の文章です。


---------------(たまには読書(2))------------------------

松浦です。返信ありがとうございました。
Xさんの問いに少しでも答えようとして考えてはみたのですが、今のところの結論
としては、「Xさんの挙げられたケースについて、哲学者は何を言うべきか、何を
すべきか、あるいは、こうした方がいいといった、具体的なことは私には言えない」
ということになりました。もし私に何か言えるとすれば、深刻さの度合いは全く異な
りますが、私自身の場合を例に挙げて、私が以前Xさんのご友人と部分的に似た状
態に陥ったと思われる時にどのように振舞ったかを述べ、その時の私に哲学者の言葉
がどのように影響したかを多少なりとも示すことだけです。ですから、以下の文章
は、Xさんの問いに対して正面から答えたものではなく、少しずれた答えになって
いるということを予めご理解ください。また、事柄の性質上、少々長いメールになり
ますことも予めお断り申し上げておきます。

昨年春のXXXX研究会の席上でもこのことは少しお話しましたが、私は7年ほど前
にクローン病と疑われる腸の病気にかかり、二度開腹手術を受けました(結局診断未
確定のまま現在に至っています)。一度目は腸閉塞ということで開腹し、恐らくその
時の様子からやや特殊な人工肛門をつけ、傷口の回復を待って種々の検査を始め、二
度目の手術で病巣を摘出し、最初の手術から五ヶ月後に退院しました。その後は、一
度だけ腸に炎症を起こして病院に行ったことがありますが、それ以外は病院に行った
ことがなく「だましだまし」暮らしています(たまに便秘・下痢・胃拡張らしき状態
になって苦しくなりますが、嘔吐はなく、血便もない、と、思います)。

「クローン病と疑われる病気」というのが仮に「クローン病」だったとしても、高々
「難病」であって、それだけで死に至るということはないのでしょうから、その意味
では癌ほど深刻な病気ではありません(たぶん)。当時の主治医の方からも「良性で
す」と言われたと記憶しています。もちろん、その言葉を聞いてホッとしたのは事実
ですし、現在までの経過からみて、結果的には良性だったと言えるのでしょうが、し
かし、入院している最中に、その医師の言葉を全面的に信じることができたかと言え
ば、必ずしもそう単純なものではありませんでした。実際、いくら良性だと言われて
も、人口肛門から血便が出てくるのを見、一人でパウチ交換(?記憶が不鮮明)など
をしている時には、ひょっとするとこれは癌で、主治医の方や両親は私に嘘をついて
いるのではないかと不安になることもありました。また、両親の配慮で個室に入院さ
せてもらっていたこともある意味で禍したためか、二度目の手術が近づくにつれ気持
ちが沈むことが多くなり、何か頼りになるものを探していたような気がします。これ
は、主治医の方や看護婦さんなど、周囲の人たちとの人間関係がうまくいっているか
いないかということとは、ひょっとすると、別のことかもしれません。つまり、周囲
の人たちの前ではそれなりに明るく振舞ってはいても、一人になると気持ちが沈む、
というようなことです。

そういう状態にいたとき、というよりはむしろ、入院時に限らず、若い頃から、たと
えば自殺について考えるような気持ちに陥ったとき、たいてい私は哲学書を読むよう
な習慣が身についていましたので、その時もまたその例にもれず哲学書に手を伸ば
し、以前ならショーペンハウエルの『自殺について』だったのが、その時は『パイド
ン』というプラトンの三大福音書の一つ(霊魂不滅の証明が行われる本)を読んで涙
を流し、その後はすっきりして(カタルシス(心の浄化))、落ち着きを取り戻す、
ということが何度かありました。プラトンという哲学者は死後も魂は不滅だと説くの
に対して、この前のメールでご紹介したエピクロスは、死んだらわれわれはいなくな
る(意識はなくなる)のだから安心しなさい、というように、両者は全く反対のこと
を言っているように思えるわけですが、私はどちらを読んでも安心できるのです。結
局、言われている内容が問題なのではなくて、そのような精神状態に陥った時にいつ
も自分がすること、自分の好きな本を読むという自分にとってお馴染みのことをする
ことによって、安心しているというようなところがあるのかも知れません(本当のと
ころはよくわかりませんが)。

ですから、私がこの前のメールで、「心の支えを与えるのが哲学者の本領」と言った
時に念頭においていたのは、私自身の場合に、プラトンやエピクロスやショーペンハ
ウエルといった哲学者の書物を読んで安心できるということだったと言えるわけで
す。従ってまた、かくかくしかじかの医療行為を行った医師は倫理的に正しい・正し
くないといった仕方で「倫理的基準」を与える行為によって、医療者の方はともかく
患者が安心できるものかどうか、少なくとも私には疑問に思えるわけです(医療者の
方、ごめんなさい)。だから私は、この前のメールにあるようなことを書いたわけで
す。

以上のような考えを持っているものですから、私には、Xさんのご友人の場合に、
この「私が」、あるいは、「哲学者が」、具体的に何をどのように言えば、友人の方
の心の支えを与えることができるのか、ということはわからないわけです。それでも
どうしても何か一言言えとおっしゃるのなら、「これまで精神的につらい状態に陥っ
た時に自分がいつもしてきたことをする」ということになりましょうか。これこそま
さに「抽象的なこと」と言われるのでしょうが、これ以上具体的なことは、少なくと
も私には言えません。それ以上のことは、ご本人か、本人のことをよく知っている人
でないとわからないように私には思えます。

以上、Xさんの問いかけに対する答えにはなっていないとは思いますが、あまり長
くなってもご迷惑でしょうから、差し当たり、上に述べたことを返答とさせていただ
きたいと思います。

---------------(たまには読書(2)終わり)------------------------
by matsuura2005 | 2005-11-20 00:01
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