管理人 : 松浦明宏
生きる意味とヴァーチャルリアリティー -岩田靖夫著『よく生きる』へのコメント-
岩田靖夫著『よく生きる』(ちくま新書、2005年11月)が出版されました。

「「よく生きる」。これは、時と所を問わず、人間にとって究極の問いである。人は強くて、同時に弱くなければならない。人は強くなければ自分の存在を守れない。しかし、それは動物としての生存の維持である。人は、弱くなったとき、他者の心を理解し、他者との真の交わりに入り、存在の根拠に帰入する。それが人の幸せである。・・・。」(表紙カバー見返しより引用)

この考えを基調として、著者自身の最近十年ほどの研究の中から、「よく生きる」というテーマに関連のあるものがまとめられています(「あとがき」にもとづく)。そのうち第2章の最初の論考「孤独の突破」の中で、「何のために生きているのか」について、御自身の長年にわたる人生経験から、次のように述べられています。

「 さて、私の考えでは、何のために生きているかというと、「かけがえのない人に出会うために」生きているのです。何のために生きているか。美味しいものを食べるために生きているのでもないし、お金を儲けるために生きているのでもないし、名誉を得るために生きているのでもなくて、「かけがえのない人に出会うために」生きている。それが私の七〇年の結論。そういうかけがえのない人に出会うことによって、自分もかけがえのない人間になる。
 それはどういうことかというと、人間は誰でも、自分を肯定したいのです。自分を認めてもらいたい。自分の存在を。だけど、自分の存在を自分で肯定できるでしょうか。「私はいい人です」と自分で自分に言って、それで、人間は自分の存在を肯定できたと思えるでしょうか。「私はいい人です」と自分で言ったって何の意味もない。肯定にも何もならない。それは人間が自分で自分を支えることが出来ないということです。
・・・。
 では、誰が、どういうふうに、自分の存在を肯定できるのでしょうか。自分の存在に意味があるとは、どういうことなのでしょうか。それは、人との交わりの中で自分の存在に意味があるのかないのか、ということで決まるのです。人との交わりの中で自分がかけがえのない人間になるかどうか。このことによって、自分の存在に意味があるかないかが決まるのです。」(同書、84頁ー85頁)


人が生きる意味、人が生きる目的は、「かけがえのない人に出会う」ことであり、「人との交わりの中で自分の存在に意味があるのかないのか」、「人との交わりの中で自分がかけがえのない人間になるかどうか」によって、自分の存在の意味が決まる。他にも印象深いお話がいくつもありますが、特にこのあたりは、生きる意味について、単刀直入に語っておられ、何年か前に御論文を拝読した時以来、印象に残っています(書籍では、御論文の時とは少し異なる文体が用いられています)。

上で言われる「人との交わり」は、能力や地位や名誉などをすべて剥ぎ取った、カテゴリー・ゼロの世界、いわば「弱さの世界」で行われる交わりのことであり、この交わりにおいて、初めて、人は、本当の幸福に到達できるということなのでしょうから、職場や学校など、能力を競うような場面での「交流」や、いわゆる「社交」によっては、人は本当には幸福にはなれないということになるのでしょう。実際、「社交の得意な」或る人が、こういう趣旨のこと言っていました。「人に期待しなければ、社交など簡単だよ」。結局、この人もまた、社交においては、本当の人と人との交流など期待できないし、むしろ期待する方がどうかしている、と考えているのでしょう。

しかし、それにしても、現実の世の中にはなんと「強者の交わり」が多いことか、とつくづく思います。どこへ行っても、「私が、私が」、と自己主張する姿ばかり見かけ、かつては自分もそうであったそういう姿を見るたびに、自分もそれに参加しようという気持ちにはもはやなれず、ここには私の居場所はないと思うことばかりです。

そういう意味で、私は、ヴァーチャルリアリティーの世界の中で自己主張することによって、自分の多少は残っている存在欲求(コナトゥス・エッセンディー)を満たすという条件と、現実世界の強者の交わりに参加することがもはやできなくなった一人の弱者として他者と交わりを求め、この交わりによって自己肯定の欲求を -満たすことできるとすれば- 満たすという条件との、二つの条件を同時に満たす可能性を持った場として、このホームページを位置づけるようになりました。

もし「エピクロスの園」が「人と人との希薄な交わりの場所」のことであるとすれば、ひょっとするとこのホームページが私にとっての「エピクロスの園」なのかもしれません。そして、ここで得る「希薄な交わり」によってもし私の自己が誰かに肯定されるとすれば、そういう仕方でひょっとすると私は「アタラクシア」に到達できるのかもしれません。それが、私なりに古代ギリシア哲学を現代倫理の中で実践する一つの方法なのかもしれません。
by matsuura2005 | 2005-11-13 16:54
携帯とひきこもり >>
<< たまには読書 -死と哲学者の言...