管理人 : 松浦明宏
プラトン解釈(6) -ディアレクティケーと「母音の比喩」-
拙著第二章の導入部にしようと考えている草稿です(『ソフィステース』篇のあらすじ等も加えます)。
以前古典学会に発表した内容の冒頭部に、「母音の比喩」を加えて、今回、ほぼ全面的に書き改めたものです。ディアレクティケーの成立根拠という事柄を対話篇から導出するには、「母音の比喩」が重要であると考えたためです。

尚、今回で、拙著内容をHPにアップするのは終わりとします。セドリーの解釈や不文の教説、レズリー・ブラウンの解釈については、既に事実上アップしてありますし、ディアレクティケーの成立根拠に関する記述は、HPにアップするにはあまりにも長すぎるので、これはやはり書籍の形でご覧いただく方が適しているように思えるからです。


------------(以下、本文)--------------

『ソフィステース』篇中央部において形相相互の結合の議論が展開されている最中で、哲学者の仕事として、対話篇両端部に見られるソフィスト定義におけるディアレクティケーを連想させる発言が行われる。

(0)「類に従って分割すること、そして同じエイドスを異なるエイドスと思ったり、異なるエイドスなのに同じエイドスと思ったりしないこと」は「ディアレクティケーの知識に属する」が、これができる人は、

① 一つずつ別々に横たわっている多くのものを貫いて
  一つのイデアがあらゆる仕方で伸び広がっていること、
② 互いに異なる多くのイデアが 一つのイデアによって外側から取り巻かれていること、
③ 一つのイデアが多くの諸々の全体を貫いて一つに統合されていること、
④ 多くのイデアが別々にあらゆる仕方で分けられていること、

以上四つのことを「十分に」(hikanos)把握している(253d-e)。

この記述における「十分に」という言葉を、私は、①〜④に描かれたディアレクティケー(ソフィスト定義の場面で実践されている「分割と総合の方法」)の「成立根拠」(アイティア)を把握することと解釈し、いわゆる「最大の五類」(五つのメギスタ・ゲネー)をこの「成立根拠」の場面に位置づける。このように解釈する典拠の一つは、上記の箇所の直前に示されているいわゆる「母音の比喩」である。


エレアの客人は、類相互の結合関係を字母同士の結合関係に譬えて次のように語っている。

「或る類は混じり合おうとするが、或る類は混じり合おうとしないということになると、それはちょうど字母の場合と同じ事情にあることになるだろう。というのは、字母もまた、或るものは互いに調和しないが、或るものは調和するからだ。」(252e9-253a2)

「しかし、諸々の母音は、他の諸々の字母(子音)よりも際立った仕方で、いわば繋ぎ(desmos)のように、すべてを貫いて行き渡っていて、その結果、それらのうちの何かがなければ、他の諸々の字母(子音)もまた互いに調和することができなくなる。」(253a4-6)

そして、客人は、

どの字母とどの字母とが調和して、どの字母とどの字母とが調和しないのかを「十分に」(253a9 hikanos)知るには、読み書きの技術を必要とする

と述べ、音楽の場合にも、どの音とどの音が調和するのかしないのかは音楽家だけが知っている、と事例を挙げる。そして、これらを雛型として、類の場合について次のように述べる。

「ではどうだろう。類の場合も、その混じり合いに関して、(字母や音と)同様の事情にあることをわれわれが同意した以上は、どんな類がどんな類と調和して、どんな類が互いを受け入れないかを正しく示そうとする人は、何らかの知識を持って諸々の言論を通っていくことが必然なのではないか? とりわけ、すべての類を貫いて、それらを結合し、それらが混じり合うことを可能にする何らかの類があるのかどうか、逆にまた、諸々の分割の場合には、諸々の全体を貫いて、分割の成立根拠となる別の類(hetera aitia)があるのかどうか(を正しく示そうとする人は)。」(253b9-c3、括弧内の日本語は私の補足)
 


さて、こうした母音の比喩がディアレクティケーの諸過程やその知識を持った人すなわち「哲学者」を念頭に置いて書かれていることは明らかである。「母音の比喩」における「十分に」という言葉の使われ方を見ると、それは、類相互の結合と分割、字母相互の調和と不調和に関する「技術(知識)を持っている」という意味で使われている。何かを単に知っているだけでなく、十分に知るためには、その何かについての知識を必要とするということである。したがって、冒頭の「①〜④を十分に把握している」と言われる場合にも、この言葉は、「①〜④について知識を持っている」という意味に使われていると解するのが自然である。

たとえば、冒頭の(0)を踏まえて言うならば、「制作術を実物制作術と映像制作術に分割すること」ができ、「映像制作術という観点ではソフィストと同じ種族(シュンゲノス、タウトン・エイドス)である哲学者をソフィストと異なる種族であると思ったり、現像制作術という観点ではソフィストと異なる種族である哲学者をソフィストと同じ種族と思ったりしないこと」ができる人は、ディアレクティケーの知識を持っている人であり、その知識ゆえに①〜④を十分に把握しているということ、逆に言えば、①〜④を十分に把握していると言えるためには①〜④についての知識を必要とする、ということである。

ではどういう人なら知識を持った人であると言えるのかといえば、「母音の比喩」によれば、その人が各々の事柄の成立根拠(アイティア)を示そうとする人である場合である(示そうとする人というよりはむしろ、示すことのできる人と言った方がよいであろうが)。すなわち、類相互の結合と分割について「何らかの知識」を持っている人は、分割なら分割の「成立根拠」となる類があるのかどうかも正しく示そうとする人であるとされているということである。したがって、①〜④について知識を持っている人は、①〜④の各々の成立根拠となる類があるのかどうかをも正しく示そうとする。

ここで、仮に①が、「「ある」という一つのイデアが、すべてのものを貫いて、あらゆる仕方で行き渡っている」、という事態を表していると考えてみよう。その場合、上記によれば、その事態の成立根拠を示す必要がある。だが、「ある」というイデアがすべてのものを貫く根拠は何か、なぜ「ある」はすべてを貫いているのか、という問いに答えることは難しい。実際また、①では「すべてのものを貫いて」とは言われておらず、「多くのものを貫いて」と言われていることからすれば、①の「一つのイデア」は「ある」とは考えない方がより自然である。従って、むしろ、①〜④の各々の事態の成立根拠を問う場合には、①〜④は最大の類に関する記述と見るのではなく、ソフィスト定義において行われている諸過程に関する記述と見るのが、より自然である。たとえば、①を、「多くの技術を見渡して、或る領域内のすべてのものに獲得術という一つの特徴が備わっているのを見出す」という事態を表したものと見た場合には、①の成立根拠を問うとは、総観の成立根拠を問うという意味であることになり、この「成立根拠」がたとえば「ある」であると答えることは、先の場合に比べれば困難は少ないように思われる(この点については第三章で詳述する)。実際また、そのように解した場合には、「母音の比喩」において「分割の成立根拠となる別の類があるかどうか」と語られていたことと整合的に理解することができるであろう。

つまり、繰り返しになるが、

「とりわけ、すべての類を貫いて、それらを結合し、それらが混じり合うことを可能にする何らかの類があるのかどうか、逆にまた、諸々の分割の場合には、諸々の全体を貫いて、分割の成立根拠となる別の類(hetera aitia)があるのかどうか」(既出)

という記述から明らかなように、「すべての類を貫く何らかの類」が想定されるとすれば、それは各々の事柄が成立している当の場面においてではなくて、分割なら分割という事柄を成立させている「根拠」の場面である以上、①〜④自体を「すべての類を貫く何らかの類」の振る舞いに言及した記述と見るよりは、①〜④という事柄を成立させている根拠の場面で、「すべての類を貫く何らかの類」を(もしそれがあるとすれば)想定するのが自然である、ということである。

それゆえ、われわれは、当該の①〜④そのものを、最大の類の振る舞いに言及したものと考えるのではなく、むしろそれをソフィスト定義の場面におけるディアレクティケーの諸過程、すなわち、①総観、②分割、③結合、そして④これらを何度も繰り返すこと、という四つの過程に言及したものと考え(後述)、その各々の過程の成立根拠を問う場面で、「ある」や「異」などの最大の類の働きを考えることにしよう。

そこでまず本章において、われわれは、①〜④が、今述べたように、各々、総観、分割、結合、これらの繰り返し、という諸過程であることをテキストに基づいて確認することにしよう。その上で、成立根拠となる類に関する考察の基礎となる予備考察、「自体的に語られる「ある」」と「別のものとの関連で語られる「ある」」という、二つの「ある」を、ソフィスト定義の場面に定位して考察することにする。そうして後、次章第三章においてわれわれは、①〜④の諸過程の成立根拠となる類があるのかどうかの探求へと乗り出すことにする。

-----------(以下、本文略)----------------
by matsuura2005 | 2005-11-10 07:56
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