管理人 : 松浦明宏
プラトン解釈(5) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(3)-
プラトン解釈(1) -全体の導入-
プラトン解釈(2) -シュライアーマッハー主義とテュービンゲン学派-
プラトン解釈(3) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(1)-
プラトン解釈(4) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(2)-

以下は、「プラトン解釈(4) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(2)-」の続きです。今回で、シュライアーマッハーのプラトン解釈については、HP上では最終回となります。

------------(以下、本文)------------

 たとえば、次のようなロマン主義についての説明を読むとき、シュライアーマッハーの言わんとしているところがより明瞭になるかもしれない。

「それはきわめて固有な生活感情であって、ひとはそれをただもっているか、もっていないかのどちらかでしかなく、たとえもっていても、それを他人に伝えることもできなければ、他人によって伝えられることもできないのである。詩人がこうした生活感情を感じ取らせることができるのは、それをすでに何らかの仕方でみずからのうちにもっているひとにたいしてでしかないし、要するに、詩人自身の根本気分をすでに共有しているひとにたいしてでしかない。哲学者にしても、その思想構築物の回路をつぎつぎに継ぎあわせて、この根本気分にふさわしい体系をつくりあげることならできる。しかし、詩人も哲学者も、精神的で客観的な所有物のようには、この根本気分そのものを真にとらえることも、与えることもできない。ここでは、魂と魂のあいだのあらゆる意志疎通は秘教に通じた者どうしのそれであり、いかなることばもそうでない者の耳には通じないのである。」(ニコライ・ハルトマン『ドイツ観念論の哲学 第一部 フィヒテ、シェリング、ロマン主義』、村岡晋一監訳、作品社、二〇〇四年、二百三十頁)


 もしこのロマン主義的傾向をシュライアーマッハーが持っていたのだとすれば、自らの魂の中に、プラトンという詩人もしくは芸術家の根本気分と同質的なものをもっているひとにのみ、プラトンのかける謎や暗示はそれとして見出され、著者の意図の通りに解かれうる、とシュライアーマッハーは考えていたということになろう。あるいはまた、シュライアーマッハーの傾向は、次のような仕方で見ることもできるかもしれない。

「知を知とみなしうるためには、「知の原理」を知る必要がある。この原理は「真と偽」を区別することのうちに存する。・・・。
 あることが真であるか偽であるかの決定は、知の連関からいい当てられる。しかし、まず知の連関を打ち立てることが知の目標であるから、ここに解決不可能な矛盾が生じてくるように思われる。つまり、一方では、すでに存立している知の連関からのみ、あることが真であるか偽であるかの決定がなされうるのに対して、他方では、この知の連関は真と偽の区別に基づいてのみ打ち立てられるからである。
 シュライアーマッハーは、知についてのある一定の尺度がつねに前提にされていなければならないという結論を引き出すのである。意志形成の作用としての「純粋な思考」はゼロ地点から出発するのではなくて、個人の発達史の中で、あらかじめ先行している「職業的」「芸術的」そして「純粋」思考の根源的統一から分化していくのである。」(ヴォルフガング・H・プレーガー、『シュライアーマッハーの哲学』、増渕幸男監訳、玉川大学出版部、一九九八年、一四六頁)


 この引用は同書の「対話遂行の技術としての弁証法」と題された節の中で、シュライアーマッハーの弁証法(Dialektik)についてプレーガー述べたものであが、ここに描かれたことに近いことを、シュライアーマッハーはプラトンの対話篇についても考えていた可能性があるように思われる。つまり、プラトンの根源的中心思想を捉える読者は、その人の発達史の中で、知についての共通の尺度を既にプラトンと共有するようになっており、共有されているその尺度によって、プラトンの根源的中心思想へとひとりでに到達するということである。言い換えれば、前述したように、プラトンの対話篇に潜む本質的統一性を見出す読者は「内的なものの真なる聞き手」であるという時のその「内的なもの」とは、それを見出す読者の知の尺度とプラトンの知の尺度とが共通であるために、プラトンの根源的中心思想であると同時にまたその読者自身が既に自分の中に持っていたものでもあるということになる。その意味では、この「内的なもの」は、読者自身の内面を映し出す鏡のようなものなのである。

 実際、シュライアーマッハーが「序文」の中で、プラトンの対話篇を「芸術」(die Künste)であると言うときには、プラトンの対話篇にちりばめられた諸々の暗示をさまざまな断片的な「線」に喩え、そうしたさまざまな線から或る「形(Gestalt)」を思い浮かべるという仕方で、デッサンや絵画をモチーフにしている 。するとやはり、そのようにして思い浮かべられた形が確かにプラトンの意図した通りの形であるためには、それを思い浮かべる者の精神がプラトンと同質的である必要があるということになろう。ここでいわゆる「ウサギ-アヒルの絵」を引き合いに出すことが許されるならば、プラトン自身は「ウサギ」のつもりで描いた「線」のつらなりが、プラトンとは知の尺度を異にする読者の目には「アヒル」に見えるということが起こりうる以上、「ウサギ」を「ウサギとして」見るためには、プラトンと知の尺度を共有していなければならないという言い方もできるだろう。


 したがってまた、シュライアーマッハーが、プラトン哲学においては「形式と内容とが離れることはない(unzertrennlich)」 と言う時には、次のことを意味しているとみられる。すなわち、対話篇という芸術形式を用いて口頭の対話の模倣を描く際にさまざまな暗示や謎やアポリアを折り込むことで、同質的な精神を持った読者、知の尺度を既に共有している読者の内発的・自己発動的考察を促し、その内発性・自己発動性の持つ牽引力によって、対話篇には明記されていない根源的中心思想へと至らしめる、ということである。言い換えれば、プラトンは、対話篇という芸術形式において、自らの根源的中心思想を読者にいわば「想起」せしめることによって、自らの哲学の内容を具現化しようとしている、ということになろう。プラトンにとって対話篇とは、根源的中心思想の「想起」(アナムネーシス)がそこにおいて起こるべき一つの「場」であり、それが起こることによって、ロマン主義的な言い回しを借りれば、根源的中心思想という「無限なもの」が、対話篇という「有限なもの」において獲得される、という言い方もできよう。「形式と内容とが離れることはない」とは、シュライアーマッハーのプラトン解釈にあっては、「形式において内容が想起される」という意味、つまり、「しかるべき読者であれば、対話篇という芸術形式において、根源的中心思想を、必ず想起する」という意味である。想起する以上、既知の読者であれ未知の読者であれ、対話篇の読者は、何らかの仕方で、プラトンの根源的中心思想をあらかじめ自らのうちに持っていなければならないのであり、想起する以上、その根源的中心思想は対話篇には明示的に書かれていないけれども、「対話篇のみ」を読むことによって獲得することができるものであり、アリストテレス等の報告による「不文の教説」を必要としない。

 この意味で、シュライアーマッハーのプラトン解釈は、対話篇内在的な秘教主義であるということができる。対話篇を読めば、プラトンと知の尺度を共有するものとそうでないものとは、それこそひとりでに峻別されることになり、その峻別によって或る種のサークルが形成されるからである。そしてまたそれは、対話篇という著作を通して形成されるサークルではあるが、そのサークルにおいては必ずしも対話篇に明示的には書かれてはいない事柄が共有されているからである。

 以上でわれわれは、シュライアーマッハーのプラトン解釈の骨格をたどったことになる。そこで次に、シュライアーマッハーの「序文」が後のプラトン研究に与えた影響を見ることにしよう。

------------(以下、本文略)------------

書籍では、シュライアーマッハーの考えが顕教主義として誤解されたこと、シュライアーマッハー(主義)に反論するテュービンゲン学派のスレザークが、どのようにシュライアーマッハー自身の考えを誤解しているのかということなどについて、扱うつもりです。

補遺:

「フィヒテは、知的直観を演繹の最初の出発点に、つまり自我の自己直観に適用したにすぎない。シェリングはそれを超越論的な認識のすべてに適用する。・・・知的直観は、無意識的な知性がもともとは必然的に産出したものを意識的かつ自由に再産出する。だが、知的直観はひとつの精神的な芸術的センスであって、だれの意識にも与えられているわけではなく、ただ哲学にまで昂まった意識にしか与えられない。だれもが知的直観の能力をもつのでもなければ、だれもが哲学できるのでもない。生まれついての哲学者とは、より高いポテンツにある意識であり、生まれついての芸術家にほかならない。哲学は、根源的産出と軌を一にする再産出であり、原型を生み出す作用を表象のうちで哲学的に模写することであり、再意識化をつうじて根源的なものを再獲得することであり、つまりは、プラトン的な想起(アナムネーシス)なのである。」(ニコライ・ハルトマン上掲書、第三章 シェリング  三 超越論的観念論、一七七頁) 

ハルトマンのこの「プラトン的な想起」という説明を読んで、ようやく、私は、クレーマー等によって指摘されているシュライアーマッハーとシェリングとのつながりを理解することができ、また、自分なりにそうではないかと思っていたシュライアーマッハーのプラトン解釈の特徴についての理解を、「これでよかったのではないか」と、納得することができました。「納得できました」と言っても、もちろん、それで十分だというわけではないのですが、ともあれ、シュライアーマッハーの紹介の方向を或る程度の確信を持って定めるのに、ハルトマンの説明に助けられたことは間違いありません。

シュライアーマッハーのプラトン解釈については、テュービンゲン学派からいろいろな反論が出ていて、中には、その通りだと思えるものもあります。たとえば、シュライアーマッハーは、プラトンの著作の体系的性格に関して、プラトンは初期の頃から一貫した「教授計画」を立てて、それに従って、対話篇を書いていった、というような発言があります。私は、シュライアーマッハーがプラトンの著作に「本質的統一性」を見ていて、それを「体系」というならそれはそれで構わないと思っているのですが、それを一貫した「教授計画」のもとで表現したというようなことを言う必要はなかったと考えています。「計画」など立てなくても、プラトン自身が書いたものに自然に一貫性が出てくる(と解釈する)ことは十分可能でしょうから。実際、それがロマン主義等本文中で紹介した傾向の、一つの重要な特徴なのではないかと思えます(「生まれついて」(先天的)か、「個人の発達史の中で」(後天的)か、という違いは、ここでは脇に置きます)。

このように、シュライアーマッハーの言っていることの中には、いくつか奇妙なことはあるのですが、そういうことは、少なくとも私には、上で紹介してきたシュライアーマッハーのプラトン解釈の重要性を必ずしも損なうものではなく、むしろ、いくつか述べているそうした奇妙なところにあまりにもとらわれてしまうと、シュライアーマッハーのよいところが見えなくなってしまうように思えるのです。おそらく私たちは、シュライアーマッハーのプラトン解釈のよいところを正確に見定めた上で、それを引き継いでいく必要があると思うのですが、現在のプラトン研究の状況では、まだそれが十分にはできていないように思われます。私たちは「シュライアーマッハー」を見失ってしまった。それが現代のプラトン研究のもつ最も根本的な問題点の一つであると私は考えています。
by matsuura2005 | 2005-11-06 00:49
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