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管理人 : 松浦明宏
プラトン解釈(4) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(2)-
プラトン解釈(1) -全体の導入-
プラトン解釈(2) -シュライアーマッハー主義とテュービンゲン学派-
プラトン解釈(3) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(1)-
プラトン解釈(5) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(3)-


以下は、「プラトン解釈(3) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(1)-」)の続きです。例によって、脚注なし、本文のみということでご了承ください。

------------(以下、本文)------------

シュライアーマッハーによれば、プラトンにとって「直接的な教えは秘教的に振舞うことであり、著述することは顕教的に振舞うことである」 。私見によれば、シュライアーマッハーのこの発言は誤解を招きやすい。というのも、ここでいう「直接的な教え」を「口頭による教え」とのみ解し、それを以て秘教と解すれば、それはアリストテレス等の著作物に見られる不文の教説を意味する以上、その不文の教説を排するシュライアーマッハーは反秘教主義者、顕教主義者であるということになるからである。だが、先に見たように、シュライアーマッハーの考えの中には、プラトンの根源的諸原理が、注意深い人やプラトン学徒にのみ伝わり、そうでない人には伝わらないという仕方で、あるいはまた、著作の中に明示的に書かれていないことを、口頭や文字という通常の伝達手段によらずに伝えるという仕方で、秘教的な要素が含まれていると見られる以上、シュライアーマッハーが不文の教説を排除しているというだけの理由で、その考えを反秘教主義や顕教主義と呼ぶことはできない。実際、先に紹介したスレザークは、シュライアーマッハー(主義)とテュービンゲン学派との争点は反秘教主義と秘教主義という点にあるのではなく、どのような種類の秘教主義なのかという点にあることを指摘しており、その意味で、スレザークもまたシュライアーマッハーを秘教主義者と見ていることは確実である。となると、上述の「直接的な教え」は、「口頭による教え」に限られるものではなく、対話篇の内部においてもありうるということになる。シュライアーマッハーの考えがスレザークによって「対話篇内在的秘教主義」と言われるゆえんである。したがってまた、先述の「著述することは顕教的に振る舞うことである」とは、著作の中に文字として明示的に書かれたもの(対話劇のストーリー)について言われていることになる。「プラトンにとって、対話『劇』を書くことは顕教的に振る舞うことである」ということである。しかしそれにしても、その「対話劇に内在する直接的な教え」とはどのようなものであり、どのような仕方で教えられるのだろうか。

シュライアーマッハーによれば、注意深い読者は、プラトンの対話篇の「内的なつながり」(der innere Zusammenhang)への感覚を研ぎすますようになる 。ここでいう内的なつながりとは、一つの対話篇の個々の部分同士のつながりであると同時にまた対話篇同士のつながりでもある 。こうした内的なつながりは、内的という以上もちろん対話篇に明示的に書かれているとは限らず、むしろその背後で個々の対話篇同士あるいは一つの対話篇の個々の部分同士を貫いてそれらを一つに統合している「本質的統一性」(wesentliche Einheit)のことである 。それぞれの対話篇の中からそうした隠れた本質的統一性を見出す読者が、或る意味では、「内的なものの真なる聞き手」(ein wahrer Hörer des Inneren)であり 、そのようにして聞き取られたものがプラトンの「根源的中心思想」(die ursprüngliche und leitende Idee)なのである 。

このことは、なぜプラトンが著述に対話篇という形式を選んだのかということと密接なつながりを持っている。シュライアーマッハーによれば、プラトンが著作活動において対話篇という形式を選んだのは、口頭での対話を模倣(Nachamung) するためである。つまり、プラトンは、アカデメイアにおける口頭での対話を模倣する仕方で著作を行い、しかもその著作の中に口頭での対話において語られていた根源的中心思想を敢えて明記しないままにしておくことによって、その著作を読んだアカデメイアの学生や(老年になった時の)プラトン自身が口頭での対話で語られていた根源的中心思想を思い出すことができるようにしておいたということである 。だが、既に述べたように、シュライアーマッハーは、その根源的中心思想を未だ知らない読者でも対話篇を読むことによってそれを知ることができると考えている。とすれば、なぜそのようなことがおこりうるのかが問題になる。すでに知っている読者にとっては覚え書きであるとしても、その覚え書きによってなぜ未知の読者が知へと導かれうるのだろうか。それを可能にするのが、シュライアーマッハーの言うところの「読者の性質」(eine Beschaffenheit des Lesers)である 。つまり、未知なる読者の心の中に、すでに知っている人の心の中にあるものと同質的なものがあって 、その同質的なものによって知へと引き寄せられるということである。同質的な者同士は何か内発的な牽引力によってひかれ合うために、その牽引力によって、未知なる読者であっても既知なる読者と同じところへ辿り着くことができる。シュライアーマッハーが、プラトンの対話篇においては「しばしば、まったく未知で偶然的な仕方で多くのほのめかしが投げ出されるが、そうした暗示を見つけ出して理解するのは、本当にそして自己発動的に(selbsttätig)探す人だけである」 と言うときの自己発動性は、この内発的牽引力を指して言われているのであろう。つまり、プラトンと精神的に似たところを持っている読者であれば、まだプラトンの対話篇を読んだことのない読者であっても、その同質性の持つ必然的な牽引力によって、読者の方から「ひとりでに」プラトンと同じ考えにたどり着く、ということである。何かこのような意味でシュライアーマッハーは「自己発動的に探求する人」、「読者の性質」と言っていると思われる。

(以下、「プラトン解釈(5) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(3)-」に続く)
by matsuura2005 | 2005-10-30 04:17
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