管理人 : 松浦明宏
プラトン解釈(1) -全体の導入-
プラトン解釈(2) -シュライアーマッハー主義とテュービンゲン学派-
プラトン解釈(3) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(1)-
プラトン解釈(4) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(2)-
プラトン解釈(5) -シュライアーマッハーのプラトン解釈(3)-


これから、12月末まで、随時、拙著本文を推敲したものをここにアップしていこうと思います。全部をアップするということは、たぶん、できないとは思いますが・・・。御読みになって関心をもたれた方は、出版の暁にはどうぞお買い求めください。なお、文章の性格上、若干の変更の可能性もありますので、その場合には、ご了承ください。

------------(以下、本文)------------
第一章 プラトン解釈の方法

 本章では、プラトン哲学について論じる場合に前提となる「解釈の方法」について、本書の採る考え方を確認する。「解釈の方法」という言葉を聞くと、何か形式的な事柄であるかのように聞こえ、プラトン哲学の内容にはあまり関係がないように思われるかもしれない。しかし、おそらくは、そのまったく逆である。プラトンの著作を解釈する際にどのような方法をとるかは、プラトン哲学の内容を理解する上で、ほとんど決定的に重要な意味を持っている。なぜかといえば、どのような「解釈の方法」をとるかによって「解釈の内容」が根本的に異なってくるからである。

 「解釈の方法」というのはつまり「解釈のルート(道)」であり、それはまた、解釈を行うための「基盤」、「足場」、「立場」、「立脚点」、「視点」等、様々な含みを持っているように思われる。「解釈のルート」が出来上がっているとはつまり、解釈の足場が定まっているということであり、それに基づいてテキストを見れば、他の方法を足場にしてテキストを見た場合と、テキストの眺望が変わってくる。ただし、それが「足場」であるということはまた、その上を「歩いている人」がその「足場」を意識しているとは限らず、むしろそれには無自覚的に「歩いている」という場合の方が多いであろう。自分の歩いている道が花崗岩でできているか砂岩でできているか、風化の度合いはどの程度か、などということを一々意識しながら歩く人は、地質学者でもなければ、まずいない。通常は、自分が歩いている道がどのような性質を持っているのかについては無関心なまま、見えてくる眺めの方に注意を払っている。だが、そのことが不毛な議論の原因となる場合がある。たとえば、北から見た富士山の上方に太陽が見えることがあり、南から見た富士山の上方に太陽が見えることはないとすれば、富士山を見た者のうち、或る者は「富士山の上方に太陽が見えることがある」と主張し、或る者は「富士山の上方に太陽が見えることはない」と主張するだろう。だが、当然のことながら、この二つの主張を突き合わせて、富士山の上方に太陽が見える、見えない、と、いつまで議論を戦わせていても、それがどこから富士山を見た場合の主張なのかを明確にしない限り、その議論は不毛である。

 或る意味で、これと同様のことが、「プラトン解釈の方法」についてもあてはまる。すなわち、プラトンの著作に現れる同じ文を読んでいても、それを読む者の視点の置き所が異なれば、その文について提出される解釈も異なってくる。そして、視点の位置が根本的に異なれば異なるほど、それらの解釈もまた一層根本的に異なるものとなる。南から富士山を見ている人々の抱く富士山の印象はもちろん異なるであろうけれども、いずれの場合にも、「富士山の上方に太陽が見えることはない」という点では共通している。あるいは、「富士山を南から見る」という、暗黙裡に前提されている「共通の立場」が、「富士山の上方に太陽が見えることはない」という文に投影されているという言い方もできるだろう。これに対して、南から富士山を見る人々と、北から富士山を見る人々との間には、そのような共通点はない。その分だけ、両者の「解釈」は一層根本的に異なっており、その場合には、先に見たように、「解釈者」の間で議論が空回りすることになる可能性が高くなる。

 ただし、富士山の例においては、どちら側から富士山を眺めるのが「より適切か」という問いは意味を成さない。北から見ようが南から見ようが、それは見る人の好みの問題である。これに対して、プラトン解釈の或る重要な局面においては、どの視点からプラトンの著作を読むことが「より適切か」ということを、プラトンのテキストに基づいて決めることができ、また、決めるべきでもある。どちらの立場を採るかが単なる趣味の問題であったり、ドグマの採用の問題である(ゆえに、そのドグマを放棄しなければならない理由がない)ということはない。もっとも、これは、或る一つの見方が「絶対に正しい」ということではなく、その見方の方がプラトン解釈として「より自然である」ということに過ぎないのだが、しかし、たとえそうであっても、それを決めることができるということは重要である。たとえば、これは今述べていることのあくまでも類例であるが、「ソクラテスは美少年を好む」という文は、「ソクラテスは肉体の美しい少年を好む」という意味に解釈することもできるし、「ソクラテスは心の美しい少年を好む」という意味に解釈することもできる。解釈の可能性として、最初の一文をいずれか一方の意味にしか受け取ることができないというわけではなく、従って、その文を解釈する者によって、その文の意味内容は変わりうる。その意味では、最初の一文をどのように解釈するかは、解釈者次第なのである。しかし、それが「プラトン解釈としてどちらがより適切か」ということになると、それは解釈者次第であるといって片付けることはできない。「魂の配慮」を説いたソクラテスをプラトンが支持していたと見ることの方が、ソクラテスは「肉体の配慮」を説いていてそのソクラテスをプラトンが支持していたと見ることより「一層自然」であり「より適切」であることに、プラトン研究者なら誰も異を唱えないであろう以上、件の一文がもしテキストに謎めいた形で与えられていた場合には、これを「ソクラテスは心の美しい少年を好む」という意味に解釈するよう、プラトン自身によって「意図」されていると考える方が、プラトン解釈としてはより適切であり、より自然である。言い換えれば、テキストに現れたさまざまな文について、単に解釈者の側でどのような解釈を考えることが「可能」かというだけでなく、作者プラトンはその文をどのような「意図」で書いたのかをも考慮に入れる時、可能な幾つかの解釈のうち、どれがプラトン解釈としてより適切かを決めることができるということである。このように、いずれかの視点、いずれかの立場等々の相対的な適切さを決めることができるという点が、富士山の例とプラトン解釈の場合との相違点であるが、これについては本章末でより具体的に述べることにする。

 いずれにせよ、以上に述べた意味において、自分がどのような立脚点から解釈を行っているのかを自覚すること、そして、その立脚点のプラトン解釈としての相対的な適切さの根拠をテキストに基づいて自覚することは重要である。それゆえ、具体的な解釈を行う前に、「解釈の方法」について検討し、われわれが本書でどのような解釈の立場に立つのか、また、なぜその立場がプラトン解釈としてより適切なのかを確認する必要がある。そのために、まず、プラトンの著作の性格に目を向け、「試し(ペイラ)」という一つの「解釈の方法」を提示することから考察を始めることにしよう。その考察の結果、本章末において、われわれは、或る一定の立場(ユニタリアンの立場(後述))に立つことが、プラトン解釈として「より適切である」ことを見出すであろう。

(以下続く)


(メモ)
テキストの解釈の中には、もちろん、プラトンの意図をはかりかねるということもあり、議論の余地が残されている事柄もある。しかし、そのことは、プラトンのテキストから読み取られる「すべての事柄」について、その解釈は、解釈者次第である、あるいは、或る特定の解釈者集団次第である、ということを意味しないように思われる。プラトンやソクラテスが肉体の配慮の方を魂の配慮より大切だと思っていたとは、おそらく、誰も言わないであろうが、もしそうだとすれば、なぜ、誰もそう言わないのか。これは、プラトンの著作の初期、中期、後期の区別にはおそらく関わらない問題である。プラトンは初期には魂の配慮を支持していたが、後期に入ると魂の配慮より肉体の配慮の方が大切だと思うようになったとは、誰も言わないであろう。なぜ誰もそう言わないのか。そのことを考えれば、ユニタリアン、分断派、中間派を問わず、プラトン研究に関わるどの研究者集団においても共通に前提されている事柄があるはずであり、「その共通の前提」に照らせば、おそらく、どの解釈がプラトン解釈としてより適切なのかを決めることができるように思われる。

もっとも、この考え方も、既に一つの暗黙の前提を持っている。つまり、「プラトン解釈」というものは、プラトンの「真意」、プラトンの「意図」を明らかにする行為である、という前提である。プラトンの対話篇を材料にして、自分自身で新たな哲学を構築すること、それがプラトン解釈である、と考えている人たちには、その点を明確にすることが必要であるように思われる。「提出された或る結論を、プラトン自身が意図していたのか?」と、問われた時に、その問いに対して、「これはプラトン自身が意図していたとは限らないが、それで一向に構わない。私が目的にしているのは、プラトンが何を言いたかったのかを知ることではなくて、自分自身がどのような哲学を構築するかということである」という立場に立つ場合には、私が上で述べているプラトン解釈は、おそらく、場違いであることになろう。

もう一つつけ加えておけば、読者が自由に考えることを、プラトンが意図していた、という考え方もある。つまり、プラトンは対話篇の中で「答えのないアポリア」(プラトン自身が答えを持っていない問題)を出し、それを解くことを読者に委ねた、そういう「意図」から、対話篇の中にアポリアを描いているのだ、とする考え方である。この考え方に立てば、プラトンの対話篇の中に現れる数々のアポリアについて、読者がいわば「勝手に」答えを出すことができる。問われるのは解釈の整合性のみであり、整合的でありさえすれば、いわば「何でもあり」という状況に立ち至る。しかし、この立場については、私が上に述べたことの範囲内で、対処することができるのではないかと思う。つまり、「プラトンは後期に入って肉体の配慮を魂の配慮より大切に思うようになった」という主張を、いくら論理的に整合的に示しても、他のプラトン研究者はその解釈にはコミットしないのではないか、と思われる以上、やはり、「(整合的でありさえすれば)何でもあり」ということにはならない、ということである。

他にもいくつかバリエーションは考えられるが、基本的には、上に述べたことで対処していくつもりである。つまり、私は、「プラトン解釈」というものを「プラトンの意図を明らかにする行為」であると考え、これを前提にして話を進める。このことを前提にすれば、何らかの意味でプラトンの意図に従うことを前提する立場によって提出される解釈には、より適切なものとそうでないものとの区別をもうけることができる。逆に、プラトンの意図に従うことを念頭に置かない立場のプラトン解釈は、本書の考察の対象外とする。プラトンを批判するという行為もおそらくこの立場の中に含まれるであろうが、プラトンを批判する前にまずプラトンの真意を捉えることの方が重要であると考える。
by matsuura2005 | 2005-10-09 16:46
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