管理人 : 松浦明宏
実物と映像(5) -哲学者とソフィストとの区別-
「実物と映像」というテーマは、いろいろな角度から見ることができ、とくにギリシア哲学から考察の材料を持ってくる必要はないと思います。実際、この研究ノートでは、情報源にはとくにこだわらないで考えを進めてきたつもりですし、これからもそうしていこうと思っています。しかしそれは、裏を返せば、ギリシア哲学から材料を持ってきても構わないということでもあり、今のところ考えているのは、ソクラテスのアイロニー(イロニー)という観点からの考察と、『ソフィステース』篇で哲学者とソフィストとがいずれも像制作者として分類されることにまつわる考察です。今回はそのうちの後者ということになります。

『ソフィステース』篇では、ソフィストは像の存在を否定し、すべてが実在であるとします。『テアイテトス』篇に見られるソフィスト・プロタゴラスの説「人間が万物の尺度である」を念頭におけば、何であれ、それを真であると思った人にとって、それは真である、ということになるでしょうか。自分(人間)が真理の基準だというわけです。

ここで、すべてが真である、という主張、つまり、像などなく、すべてが実在である、という主張に関しては、何か次のような問題が含まれているように思え、興味深いところがあります。

(1)哲学者が関わるとみられる実在の世界(イデア界)は、一面から見れば、すべてが真であり、偽なるものはないと言うことがさしあたりできます。「さしあたり」あるいは「一面から見れば」と言ったのは、『テアイテトス』篇第二部の「真なる仕方での虚偽」への示唆(Theae. 189c11-d4)、『ピレボス』篇に見られるアペイロン(Philb. 16c10, 23c9, 24a2, etc.)、『ソフィステース』篇中央部で「「ある」は静止と流動の両方共である」とされる際の「流動」(Soph. 249c10-d4)の問題はここでは脇に置くという意味です。他方、ソフィストの関わる世界においても、上述の通り、すべてが真であり、偽はありません。その意味で、哲学者の住む世界とソフィストの住む世界とは、共通点(?)を持っている、と言えないこともない。

(2)『ソフィステース』篇によれば、哲学者もソフィストも、いずれも、「像」を作る者と(プラトンによって)言われていると考えておいて構わないと思います。哲学者は「エイコーン」という種類の像制作に関わり、ソフィストは「ファンタスマ」という種類の像制作に関わるけれども、いずれも「像」(エイドーロン)を作るには変わりない。

では、哲学者とソフィストとはどこが違うのでしょうか。アペイロン等、上で言及した諸点は別に論じるとして、さしあたりここで目を向けたいのは、像制作の「モデル」となるものの違いです。この点について述べるために、まず、次の四つの区別を確認しておく必要があります。

(A)神の作った実物: たとえば、動物、植物、水などの自然物
(B)神の作った像: たとえば、眠りの中の像、火の中に陰影が出来る時の陰、鏡像
(C)人間の作った実物: たとえば、建築術によって作り出される家
(D)人間の作った像: たとえば、絵画に描かれた家(Soph.265e ff.)

これらのうち、哲学者の作る像もソフィストの作る像も、上記の分類で言えば、(D)に属するはずです。哲学者もソフィストも人間であり、いずれも像を制作するとされる以上、それは上の四つの分類では(D)以外にはないからです。しかし、哲学者は、イデアという、「神的なもの」ではあるが「神の作った実物」でも「神の作った像」でもなく、ましてや「人間の作った実物」でも「人間の作った像」でもない「実物」をモデルにして像を作り、それがおそらくは「エイコーン」としての像であると見られるのに対して、ソフィストは、それ以外のもの、つまり上記(A)(B)(C)(D)という森羅万象をモデルにして像を作り、それがおそらくは(ソフィストの作る)「ファンタスマ」であるとされているものと私には見えます。『ティマイオス』篇のデーミウールゴス神は、イデアをまねて宇宙を作ったわけですから、イデアは「神の作った実物」(上記(A))ではないと考えられます。そうなると、哲学者とソフィストとの違いは、その像制作の対象となる「モデル」が、上記(A)(B)(C)(D)に含まれているか否かという点にあることになりそうです(テキストに書かれていないことの方がおそらくは重要であるという、ペイラ(試し)の一例です。また、上記(A)(B)(C)(D)は、テキスト上では、「作られたもの」という観点から見られているために、実物と像という区別が成り立ち得ますが、これらを思考の対象と考えた場合には、いずれもイデアではありませんから、その意味ではすべて「像」であるということになります)。

いずれにせよ、ここでもう一つ、次のことを考えておく価値はあると思います。つまり、実物と像との関係を、たとえば、或る種の真と偽の対のように、相関概念としてとらえることです。すなわち、或る種の真偽概念については、偽が成立するためには真が成立していなければならず、真が成立するには偽が成立しなければならない、という相関的な関係が成り立っている。これと同様に、像が成立するためには実物が成立していなければならず、実物が成立するためには像が成立していなければならない。この種の考え方に基づく場合には、実物の成立と像の成立とは同時的であるということになり、したがってまた、像の成立を認めないという意味ですべてが実在であると主張するソフィストを論駁するためには、像の成立を立証して像と実物との区別を確保しなければならない、ということになるのかもしれません。

この考え方にも一理あるとは思います。つまり、相関概念としての真と偽という対をそれとして認めることはできるということです(実際、『テアイテトス』篇で一言だけ言及される「真なる仕方での虚偽」においては、まさに、真と偽とが同時に成立していると考えることもできます)。しかし、「実物」と「像」という対を、何か上述のような相関概念としてとらえた場合には、次のような問題が生じる可能性が高いように思えます。

つまり、相関概念としての「真」と「偽」が同時に成立するのと同様に、イデア(実物)と感覚的事物(イデアの像)とが同時に成立することになる、ということです。しかし、プラトンのイデアは感覚的事物から独立的に成立しますから、実物(の成立)と像(の成立)という対を相関概念として考えることは難しいように思えます。したがってまた、像の成立を立証すると同時に確保されると考えられている実物は、少なくともプラトンのイデアではありえないということにもなります(もっとも、『ソフィステース』に現れる「最大の五類」や、哲学者が「ある」のイデアに関わると言われる際の「「ある」のイデア」(Soph. 254a8-9)は、あくまでも、像と同時に成立する実在であって、像から独立的に存在・成立する「イデア」ではないというのであれば、それはそれとしてさらに吟味する必要があるでしょう)。

このことを踏まえた上で、哲学者とソフィストとの区別について、私なら次のように言います。すなわち、この区別は、「実物と像との区別」に着目するよりはむしろ、上記(A)〜(D)を思考の対象とするか、(A)〜(D)以外を思考の対象とするかという、「思考の対象の区別」に着目した方が、少なくとも私にはわかりやすい。言い換えれば、テキスト(Soph. 254a)において、哲学者は「ある」のイデアに関わり、ソフィストは「あらぬ」に関わる、と言われている際の「ある」のイデアは、(A)〜(D)以外の領域に存在する実在のことであると見られるのに対して、「あらぬ」は(A)〜(D)の領域内に存在するもののことであると見られる、ということになりましょうか。動物や植物が(イデアをまねて)神に作られた実物だとすれば、それも一種の像(イデアの像)であり、他の(B)〜(D)に属するものと同様、人間の目に見える像(眠りの中の像は肉眼で見えるというわけではありませんが)であると言うこともできます。いずれにせよ、これら(A)〜(D)のみを思考の対象として、それ以外のものを思考の対象と考えないのがおそらくはソフィストの立場であり、それ以外のものもあると考えてそれを思考の対象とするのが哲学者の立場である、ということになるのではないかと思います。

「実物と像との区別」を相関概念としてとらえるという仕方ではなく、「思考の対象の区別」に着目するという仕方で、哲学者とソフィストの区別を、『ソフィステース』に基づいて説明することはできるということ、また、そのようにして説明した場合でも、哲学者とソフィストとは「同時に区別される」、と私には思える、ということです。
by matsuura2005 | 2005-10-03 07:53
実物と映像(4) -ついていい... >>
<< プラトン解釈(1) -全体の導入-