管理人 : 松浦明宏
実物と映像(4) -ついていい嘘と悪い嘘-
同じ嘘でも、ついていい嘘と、わるい嘘がある、とよく言われます。どういう嘘ならついてもよく、どういう嘘はついてはいけないのか、と問われた時、どのように答えたらよいのでしょうか。「それくらい常識でわからないのかね」、と言われるのかもしれませんし、その答えには一理あると思います。しかし、いま問うているのは、或る意味では、その「常識」とは何か、あるいは、その「常識」なるものをもう少し解きほぐして説明すると、どういうことになるのか、ということであるという言い方もできるのです。

この種の問題には、実物と映像(虚構)という、何らかの意味で存在するもの同士のギャップを問題にする視点と、そのギャップがよいギャップなのかよくないギャップなのかを問題にする倫理的視点とが重なっているように思います。そこで、整理して考えるために、まずは前者の視点から、三つの区別を立ててみます。

(1)真実を捉えていない状態で、何かを真実であると言ったり表現したりするときの、その「何か」と「真実である(と言われるもの)」とのギャップ(まぐれあたりによる一致をも含む)をさして、「虚構」と言う場合。ソフィストの言う「真実」、アリストファネスやクセノフォンの描くソクラテス像。

(2)真実を捉えている状態で、その真実とは異なることをあえて真実であると言ったり表現したりする時の、その「その真実」と「真実である(と言われるもの)」とのギャップをさして、「虚構」と言う場合。重病患者への嘘、捨て子を育てている両親がその子に自分の子だと言う、両親のつく嘘、詐欺師のつく嘘。

(3)真実を捉えている状態で、その真実をその通りに真実であると語ったり表現したりしているが、その言葉や表現が、見かけや史実とは一致しないという時の、その「その言葉や表現(の指示対象である真実)」と「見かけや史実」とのギャップをさして、「虚構」という場合。よく出来た似顔絵、プラトンの描くソクラテス像。

真実を捉えていない場合には、(1)の「何か」が真実かどうか決まらないために、(2)と(3)との違い、つまり、「真実と異なる」ということと「真実をその通りに」ということとの区別を立てることができません。そのため、真実を捉えていない場合は一通りに考えておきます。

次に、以上の区別に倫理的な要素を重ねて見ます。倫理的要素には、いろいろなものが考えられるとは思いますが、さしあたり、ここでは
(A)利己主義的要素と(B)利他主義的要素
という二つの区別を導入し、合計6つの分類を立ててみることにします。

(1)ー(A) 自己利益を目的とする場合: ソフィストの知恵の演示(法外な授業料、名誉、名声のために行う)、アリストファネスのソクラテス像(ソクラテスを徹底的に風刺する根本的な動機は、自己利益にあると見ます。ソクラテスのためを思って描いているのではないでしょうから。)
(1)ー(B)他人のためを思っている場合:クセノフォンのソクラテス像
クセノフォンはソクラテスに心酔していて、ソクラテスのためを思って描いているという点で、アリストファネスのソクラテス像とは区別されると思います。他方、ソクラテスの本質を捉え損ねた上で描いているという点で、プラトンのソクラテス像と区別されるように思います。

(2)ー(A)自己利益を主要な動機とする場合: 詐欺師のつく嘘、いわゆる「人を騙す」こと。
(2)−(B)利他的な動機の場合: 捨て子の両親がつく嘘
ついた嘘が自分のためか他人のためかということは、比較的重要な基準と思います。

(3)−(A)その嘘が周りには迷惑をかける場合:モデルが不快に思うよく出来た似顔絵で食べている画家(!)
(3)ー(B)その嘘が周りにあまり迷惑をかけない場合:モデルが苦笑いするよく出来た似顔絵で食べている画家
他者(似顔絵のモデル等)への影響を基準にしているという点では、これも利他的な視点を基準にしていると言えるのではないかと思います(どちらの場合にも、「食べている」という利己的な要素は入っていますが、(3)ー(A)は利己的な要素が利他的な要素に勝っているのに対して、(3)ー(B)は利己的な要素はより弱く、その意味で、(3)ー(A)の方がより利己的で、(3)ー(B)の方がより利他的であると考えます)。


ちなみに、(1)ー(B)に分類される嘘をつく人(虚偽を語る人)は、「人はいいのだけれど、人柄のよさに知性が伴っていない」という言い方もでき、たとえば、ソクラテスの友人クリトンなどもその一人かと思います。「ソクラテス思いのいい人なのだが、ソクラテスの言うことを何もわかっていない人」というところです。これに対して(1)ー(A)に分類されるソフィストは、わかってもいないし、人もわるい、という言い方もでき、その意味では、「癒しがたい人」ということになるのでしょうね、少なくとも、プラトン的には。

以上の分類からすると、
ついてはならないのであろう嘘は(1)ー(A)、(2)ー(A)、(3)ー(A)、
無理かもしれないが、できればつかない方がよいのではないかと思われる嘘が(1)ー(B)、
ついてもかまわないであろうと思われる嘘は(3)ー(B)、
おそらくはついた方がよいのではないかと私には思える嘘は(2)ー(B)
ということになるのでしょう。ただし、ここで言う「ついてはならない嘘」等は、「語られてはならない虚偽」、「作成されてはならない虚構」等をもすべて含めて言われているものとご理解ください(以下も同様です)。

もう少しおおざっぱにまとめ直すと、
ついてはならない嘘(つかない方がよい嘘)が、(1)ー(A)、(1)ー(B)、(2)ー(A)、(3)ー(A)、
ついてもよい嘘(ついた方がよい嘘)が、(2)ー(B)、(3)ー(B)
ということになるのでしょう。

ただし、以上は極めて単純化して考えた場合であり、他にもいろいろな種類の嘘や基準がありそうです。ちょっと考えただけでも、恋愛の場面で、女性が男性につく嘘、男性が女性につく嘘、などという、いわゆる「かけひき」としての嘘は、利己主義、利他主義という基準等、上に述べた基準だけで覆い尽くせるのかどうか・・・。難しいところですが、単に「程度問題だ」という答えは、私としては答えのうちには含めたくないという気がします。どの程度ならいいのか、と直ちに問い返したくなりますから。かけひきということで言えば、商売人が買い物客につく嘘、等々もあるでしょう。利己的な嘘ではあっても、道徳的に「ついてはならない嘘」や「つかない方がよい嘘」とまで言えるのかどうかは微妙なところかと思います。また、嘘を「つくこと」と本当のことを「言わないこと」という、行為と不作為との区別も重要な区別です。医者がガン患者に「あなたはガンではなくて胃潰瘍です」と「言う」ことと、何も言わないこととの間には、大きな違いがあると思います。前者の場合、医師は嘘をついたことになりますが、患者はさしあたり安心する可能性があります。後者の場合、医師は嘘をついたことにはなりませんが、患者に与える不安が大きい。これはどちらが道徳的によいことなのかどうか、にわかには決めることができないように思えます。あるいはまた、そもそも上の(2)や(3)でいう「真実を捉えている状態」を誰が判定するのか、という問題もあり、これもまた、最大級の難問の一つに入るのでしょう。

このように興味はつきないところですが、こうした他のさまざまな基準や例については、いずれまた考えるということにしたいと思います。
by matsuura2005 | 2005-09-30 19:18
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