管理人 : 松浦明宏
新生活
ずいぶん長い間更新しないままこのブログを放置していましたが、
この4月より、引っ越したのを機に、以前ほどの頻度ではないにせよ、このブログを再開したいと思います。

4月1日付けで、幸運にも中京大学国際教養学部の准教授に任ぜられました。
名古屋は私にとって地元であり、高校を卒業した18才まで名古屋市またはその近郊に住んでいました。
それ以来、九州、四国、宮城、東京等、期間の長短はありますが、いくつかの土地で暮らし、特に宮城では23〜24年間、ほとんど4半世紀近くの長い間、過ごすことになり、文字通り、私にとっての第二の故郷となりました。その長旅から第一の故郷に戻ってみると、やはりほっとするものですね。あと何年あるかわかりませんが、残りの人生をここで暮らそうと思います。

中京大学では論理学や哲学概論の他、いくつかのゼミ等を担当します。私の基本的な視点は、このブログのタイトルに表現しているように、古代ギリシア哲学、特に、プラトンなどの形而上学に定位した視点と、現代倫理学、特に、インターネットやケータイ、スマートフォンといった、現代的な種々の情報ツールにまつわる倫理問題や、これとも密接に関わると思われる隠れたカリキュラムという教育問題を考えるという視点等からなっていますので、授業もその路線のものになるでしょう。

ところで、最近読んでいる本の中に、『解離する生命』(野間俊一著、みすず書房)、『形而上学と神の思想』(ヴォルフハルト・パネンベルク著、座小田・諸岡訳、法政大学出版会)があります。『解離する生命』は、解離性障害、発達障害、新型うつ等の問題を、現代の若者の「傷つきやすさ」という視点から考えていて、この考えは、これまで私が講義中に学生さんから得た様々なコメントの中にも同様の趣旨のことが見られたことから、共鳴するところが大きく、興味をもって読んでいます。

『形而上学と神の思想』は、かなり前に座小田豊東北大教授からいただいたご本を、忙しさにかまけて読まないままになっていたのを、引っ越しの荷造りの時に手にとってぱらぱらとめくっているうちに、とても興味を惹かれ、引っ越しが終わった後も読み続けているものです。どこに興味が惹かれたのかと言えば、

「思惟の領域では神について沈黙しなければならないという点についてのハイデガーの基礎づけは、さほどの重みを持っていない。・・・世界の事物や自らの自我の意識のうちに与えられたものの数多性を越える上昇の目標としての一者という主題は、哲学的には、・・・基本的なものである。一者への傾向は、端緒以来のギリシア哲学における《アルケー》を確認する試みのうちに、指摘することができる。これに対して」、一者への傾向とは区別された「存在者そのものへの問いを哲学そのものの主題と説明するハイデガーのやり方には、どこか意図的なものが含まれており、それは、とりわけ存在を最も普遍的なものとして捉えるアリストテレスの態度からハイデガーが距離を取ろうとする際に際だっている。アリストテレスにおいては、こうした機能においてのみ --したがって、一切を包括する一者の表現としてのみ--、存在者そのものが第一哲学の主題になりえたにすぎない。」(パネンベルク上掲書、23頁-24頁からの抜粋。「」の外の語句は私が補ったものです。)


といった箇所があげられます(もちろん、これ以外にもありますが、ここでは省略します。)

要するに、これは、アリストテレスやプラトンをはじめとする古代ギリシア哲学者たちがアルケーを探求する場合には、一者(神)を度外視して存在(者)そのものだけを問うというようなことはしていなかったが、ハイデガーは「神について沈黙しなければならない」という仕方で、アルケーの探求から一者(神)を除外して、存在(者)そのものだけを問うことを哲学の主題であると考えている、というハイデガー批判です。

パネンベルクのハイデガー批判の正否をここで吟味することは避け、哲学・形而上学についての私の考えだけ述べておけば、哲学(形而上学)の主題には、それ自体を言葉で表現することのできないもの(一者や神など)を言葉で表現しようとする探求姿勢がかならずついてまわる、ということになります。この点について興味深いのは、たとえば、井筒俊彦氏の次の言葉です。

「形而上学の樹立を目指す哲学的思惟の場合、いたずらに「沈黙」を振りかざしてみても、いささかも問題の解決にはなりはしない。いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと --そこにこそ形而上学の本旨が存する。」(『意識の形而上学』 井筒俊彦著、中公文庫、22頁-23頁)


つまり、神や一者は言葉で語ることのできないものであるということはわかってはいるが、それにもかかわらず言葉を使ってなんとかそれを表現しようとするのが形而上学である、ということになるでしょう。できないとわかっていてもそれをしようとする姿勢が、形而上学の基本姿勢であるということです。

これらと必ずしも同じことではありませんが、プラトンのディアレクティケーの成立根拠について、拙著の「結び」の中で次のように書いた時、少なくとも私としては、類似のことを考えていたという気がします。

「私は、[プラトンの]対話篇上に示唆されているにすぎない「ディアレクティケーの成立根拠」を探求し、私なりの「答え」を提出した。だが、そのすべてが、いわば「ほんとうの答え」ではない。分割なら分割の成立根拠はかくかくのものであると、書物の中で文字の形で述べたところで、そうした成立根拠はもともと文字の形に書くことのできないものである以上、文字に書かれているというそのことによって、それはほんとうの答えではないということを自ら示している。・・・
 だが、たとえそれがほんとうの答えではないとわかっていても、それを文字の形で書くことには、意味があると私は思う。それは、そのように文字や言論の形では決してとらえることのできないものを言論化しようとするというそのことが、その人間の哲学の営みであり、その営みを書き記すことによって、その人間が自分自身で哲学を行ったという明確な足跡を残すことになるからである。・・・」(『プラトン形而上学の探求』、松浦明宏、東北大学出版会、222頁。[ ]内は今回私が補った語句です。)


ここで言う「ディアレクティケーの成立根拠」は必ずしも一者や神ではないのですが、「文字や言論の形では決してとらえることのできないもの」であるという点で形而上学的なものの一種であることは確かであり、その意味で、私が「結び」の中で書いた「哲学」という言葉は「形而上学」という言葉に置き換えることができるのであろうと思っています。

以上、特に『形而上学と神の思想』について、最近、考えたことを書きました。不定期にはなると思いますが、これからも、形而上学の話題等について、折に触れて書いていきたいと思います。
by matsuura2005 | 2013-04-02 00:09 | エッセイ
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