管理人 : 松浦明宏
David Sedley氏のセミナー - The Midwife of Platonism Text and Subtext in Plato's Theaetetus -
旧HPに掲載したものを、以下、再掲します(05/08/12)。

今日は、日本学術振興会の招聘で来日された、
ケンブリッジ大学古典学部のDavid Sedley教授のセミナーに行ってきました。
(青山学院大学セミナー(1) 時間:10:00−12:00、13:00−15:00
場所:青山学院大学、総研ビル10階第18会議室
テーマ:プラトン対話篇解釈の基本問題−『テアイテトス』を中心に)

Sedley 教授はこの後しばらく日本に滞在され、
青山学院大学の他に、慶応大学、東京大学、京都大学、都立大学で
セミナー、講演会、シンポジウムを開かれるご予定だそうです。

私が参加できそうなのは、今日のセミナーと4/10(土)のシンポジウム
(青山学院大学国際シンポジウム
時間:13:00−15:00、15:30−17:00
場所:総研ビル12階(正門右手) 国際会議場
テーマ:古代ギリシア民主主義の再検討
提題者:David Sedley、桜井万里子(東京大学)、葛西康徳(新潟大学))
だけでしたので、自分の最近の問題関心からして、どちらかというと
今日のセミナーの方に興味を引かれたことと、二回東京と仙台を往復すると、
それだけでかなりの出費になるという切実な問題のため、今日のセミナーを選んだのでした。

結局は、体調不良のため(咳が止まらず、会場にいると騒々しくて迷惑になる)、
Chapter1が終わったところで失礼することになってしまい、残念でしたが、
それでも、Sedley教授の近刊書の一部を、教授や会場に集まった方々と一緒に読むことができ、勉強になりました。

怠け者で、前もって予習をせずに参加したこともあり、全部を把握することはできませんでしたし、
今でもまだ理解できてはいないのでしょうし、これから先理解できるとも限りませんが、
少なくとも次の箇所は印象に残りました。少し長くなりますが、一段落分引用しておきます。


"I have already stressed that, whereas the dialogue's internal midwifery fails
( Theaetetus' offspring have not proved viable, as Socrates remarks at
the very end),
its external midwifery, practised on us the readers, may yet succeed.
Since the first rule of philosophical midwifery is not to hand the right answer to one's interlocutors,
but to enable them themselves to give birth to it from their own inner
resources,
the dialogue unavoidably had to stop short of telling us the right answer
to its central question.
It by no means follows that Plato himself does not know it.
Thus the external midwifery consists partly in the dialogue's power to bring
us
to the point where we are ready to abandon the written text and continue the dialectic for ouselves
,
our puzzlement at the inquiry's failure being in reality our birth pangs
as we struggle to bring to birth
a better definition of knowledge -a definition which Plato nowhere formulates
in the dialogues,
but leaves to his readers to work on
19."

"19  I am taking it, for reasons that will become clear in Chapter 6
§5,
that the Meno's implicit definition of knowledge as 'true judgement bound down by calculation of the cause' is not
-as the anonymous commentator on Tht. (II52-II25) believes it is - the missing one at the end of the dialogue."
(以上、配布資料 "The Midwife of Platonism  Text and Subtext in Plato's Theaetetus" Chapter 1. Opening moves, p.15
但し、下線はすべて引用者によるもの)

産婆術には、対話篇登場人物(テアイテトス)に対する産婆術(internal midewifery)と、
対話篇読者に対する産婆術(external midwifery)とがあって、
『テアイテトス』において前者は失敗しているが、後者は成功するかもしれない。
対話篇読者に対する産婆術は、
「われわれが、書かれたテキストを進んで捨て去り、われわれ自身のためにディアレクティケー(dialectic)を続ける」
ようにする力をもつものなのかもしれない。
ただし、そのようにしてわれわれが生み出す「知識のよりよい定義」というのは、
「プラトンが諸々の対話篇の中のどこにも定式化しておらず、むしろ読者がそれに取り組むに任せている定義」である。
『テアイテトス』についての無名の注釈者は、
『メノン』の暗黙裡の知識定義「原因の計算によって縛り付けられた真なる判断」が
その対話篇末で失われた定義(the missing one)だと信じているが、
Sedley教授は、そうではないと考える(その理由は、第六章のセクション5で明らかになる)。

第一章のこの部分だけを読んで、Sedley 教授の説に全面的に賛成することも全面的に反対することもできるわけはなく、
それは、近刊の御著書を拝読した後で、よく検討されるべきことなのでしょう。

ただ、今の時点で一つだけ確実に言えるのは、これまでの多くのプラトン研究者が、どちらかといえば
対話篇登場人物に対する産婆術(internal midewifery)に目を向ける傾向が強かったのに対して、
Sedley教授は、対話篇読者に対する産婆術(external midewifery)をも想定しており、
この点で、教授の近刊御著書は、注目に値するように思える、ということです。
(というよりはむしろ、この御著書は、既に教授が『テアイテトス』について発表されている研究成果のまとめという
意味があるのでしょうから、ただ単に私が不勉強だっただけだといった方が正確でしょう。)

ただ、そのexternal midewiferyの内容が、まだ私にはよく飲み込めていません。
教授は、別の箇所(p.10)で、maieutic interpretationと命名される解釈を示し、次のように述べています。

"The dialogue takes the form of an increasingly close approximation to the true definition of knowledge.
The first attempt is a dismal failure, the second an improvement, and so
on. The final definition, as construed in
the closing pages of the dialogue, is so close to the true one that Socrates
has to stop there and then.
Why must he stop? Because, as the dialogue itself tells us, the correct philosophical method is that of midwifery,
where it falls to the interlocutor, and no one else, to give birth to the
true doctrine. Once Plato has brought us,
the readers, as close as he can to the true definition, short of actuallly stating it, his work is done. It
remains for us, the readers, to give birth, and to see if our own offspring can be successfully reared.11
Judged in this way, the dialogue's failure is only an apparent one."

この記述によれば、対話篇上で徐々に改訂されていった諸定義、しかし、結局は正しい仕方では到達されなかった定義を、
対話篇の外で読者が自分自身でさらに改訂して正しい定義を得るよう、プラトンによって促されていた、
ということになりそうです。
その場合、対話篇上に現れている諸定義は、いわば徐々に”進歩し”、より以前に検討された定義より、
より後に検討された定義の方がより正確な定義である、だから、読者は、対話篇全体の末で破綻している定義をさらに進歩させ、
その意味で、対話篇の外部でより正しくさらに進歩した定義を得るようにしなければならない、
とプラトン自身が考えていたということになるのでしょう。

この記述は、たとえば、第一定義が破綻して第二定義に移行する際に、
”われわれは、何が知識でないかを発見するためではなく、何が知識であるかを発見するために問答をしてきたのだが、
しかし、進歩がなかったわけではなく、知識を感覚の中に求める必要はないというところまではやって来ている”
と語られることと整合的であり、対話篇末でも同様のことが語られています。
その意味では、テキスト上の根拠のある考え方だと思います。

テアイテトスが定義に失敗し、少なくともそれまでテアイテトスが考えていたようにだけは考えないようになる、という意味での「進歩」、この意味での「進歩」があることについては、私もその通りだと思います。
しかし、この種の「進歩」は、私の見るところでは、必ずしも、「対話篇が進むにつれて徐々に真なる定義に近づく」ということを意味しない。
たとえば、(手前味噌になりますが)「知識は身体的感覚である」という理解の下に第一定義が破綻したからといって、
必ずしも第二定義に移る必要はなく、「知識は精神的感覚である」という理解の下で正しい定義に到達することは可能だと、私は思います。
つまり、テアイテトスは、第一定義の破綻によって、少なくとも「知識は身体的感覚である」とだけは考えていてはいけないということがわかり、その意味では確かに「進歩」するはずです。
しかし、その進歩は、テアイテトスではなくて読者にとっては、必ずしも「第二定義への移行」を含意せず、
その移行が対話篇上で行われているのは、文字通り「対話篇の内部事情」、つまり、
テアイテトスの思考に合わせた対話劇上での進行にすぎない可能性があるということです。
したがってまた、テアイテトスに代わって読者が定義を考えるにしても、その対話篇の内部事情をそのまま延長する形で、
いわば、ホップ、ステップ、ジャンプ、でテアイテトスが失墜したので、読者がテアイテトスに代わって四回目のジャンプをする、という仕方で、「より真なる定義」を考える必要はなく、テアイテトスにとっての「ホップ」の段階で、読者が別の定義を考え、
テアイテトスにとっての「ステップ」の段階で、読者はまた別の定義を考える、という仕方で、各段階ごとに、定義を考えるということもありうる。
もちろん、その場合には、知識についての複数の定義が現れることになりますが、
それは、いわば、「普通列車」は「各駅停車」とも言えるし「鈍行列車」とも言える、というのと同じで、
同じ事柄を、表現を変えて言ったものと理解すればいい。
要するに、読者が「真なる定義」を得るためには、必ずしも対話篇の内部事情に縛られる必要はない、つまり、
対話篇の最後までテアイテトスの思考に付き合った後でないと真なる定義を考えることができないというわけではない、ということです。
むしろ、そう考えた方が、対話篇の進行に縛られる度合いが少ない分、一層純粋なexternal midwiferyになるのではないかと思うのですが・・・。

実際また、たとえば、『大ヒッピアス』の場合には、対話篇末では、定義の試み全体が破綻する際、一種の「循環」に陥っているという例もあります。
循環ということになると、必ずしも、定義が「進歩する」ということにはなりません。
もちろん、『大ヒッピアス』は偽作の可能性が高く、プラトン自身は定義を循環させて終えようとは考えていない、という論もありうるでしょう。
しかし、『大ヒッピアス』が偽作であったとしても、それが仮にアカデメイアの一学徒が習作として書いた、という類のものであった場合、アカデメイアの中でプラトンがどういうつもりで対話篇を書き、それを読者であるアカデメイア学徒たちに読ませていたかを考えると、
プラトン自身が対話篇の中で定義を必ずしも「徐々により真なる定義に近づくもの」として描いていたと考える必要はないように思えるのです。

以上、配布資料を含めて、まだ著書全体をよく読まないうちにあれこれいってもはじまらず、
ひょっとすると、以上は私の誤解に基づく妄想かもしれません。
しかし、ともかく、今回のセミナーに参加して、『テアイテトス』についてexternal midewifery という考えを知り、
私の不勉強を知ると共に、私自身が最近、シュルの「試し」解釈に基づいて『テアイテトス』研究を行っていることと、
ある種の共通点を見出すことができたように思えて、よかったと思います。
by matsuura2005 | 2004-04-05 22:10
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