管理人 : 松浦明宏
論文要旨・補遺「コンピュータ技術者の責任 --賠償責任なしの所有権」
論文要旨
ソフトウェアの使用許諾契約においては、著作権や特許権などの所有権が主張される一方で、その使用から生じた一切の責任は負わない旨の免責条項が付されるのが一般である。もちろん、この種の免責条項には「法が許す範囲において」等の限定が付けられることもあるが、ソフトウェアそのものを製造物責任法の対象と見なさない場合には、こうした限定句は、少なくとも人命や財産等の重大な損害については、実質的には意味を持たない。こうした状況について、ベンダー側の非常識を難じることはたやすいが、それを難じているだけではあまり意味がない。むしろそうした問題を生み出すことになった根本的な原因を明らかにすることの方がより重要である。

私がこの論文の中で行っているのは、そうした原因探求の試みであり、コンピュータ・エシックスの歴史、ソフトウェアの所有権問題、種々の責任概念や製造物責任法等を踏まえた上で、以下のように考えれば、有償のソフトウェアが欠陥を持つ場合にはそのソフトウェア自体を製造物責任法の対象とすることができることを論じた。そして、コンピュータ技術者はこの見方を受け入れることで社会に対する責任を担うべきであると主張した。

まず、各国の現行法において、ソフトウェアそのものが製造物責任法の対象からはずされている一つの重要な根拠は、それが有体物ではなく無体物であるという点にある。日本の場合にも、製造物責任法の対象とされる「製造物」は、民法適用により有体物と法解釈される「動産」であり、ソフトウェアは無体物である以上、ソフトウェアそのものを製造物責任法の対象とすることはできないとされている。ここで注意すべきは、(日本の)製造物責任法そのものには「動産」を有体物に限定する条文はなく、民法に基づいてそれを有体物に限ると解釈されている点である(製造物責任法第二条第一項 「この法律において「製造物」とは、製造または加工された動産をいう。」)。

なぜこのことを強調するのかと言えば、Johnsonによると、エネルギーといった無体物(より厳密には、無体のエネルギー)は製造物(product)として扱われるからである。実際、高圧ガスという無体のエネルギーは、日本の法律においても、製造物と見なされている。また、高圧ガスはもちろん不動産ではなく動産であろう。とすれば、「製造または加工された動産」を対象とする日本の製造物責任法の条文そのものにおいても、高圧ガスは当該法の対象となるはずである。となると、ソフトウェアそのものが無体物であるということを根拠に当該法の対象外とすることはできないことになる。実際、もしそれを根拠に対象外とすれば、高圧ガスもまた製造物責任法の対象外となるだろう。したがって、ソフトウェアが製造物責任法の対象となるかどうかのポイントは、これもJohnsonが正しく指摘するように、ソフトウェアが有体物か無体物かの区別にあるのではなく、それが「サービス」(service)であるか「製品(製造物)」(product)であるかという点にあることになる。

ここで、サービスとは、一般に、直接的に物質的財貨を生み出す労働以外の労働、と考えられており、このこと自体を本稿では問題にしない。むしろこの一般的な考え方を踏まえて、その考えにおける「労働」の意味を問題にする。

すなわち、教育、医療、観光等、サービスと言われるものの事例を見ればあきらかなように、この種の「労働」はあくまでも「人間が行う知的労働」である。その場合、第一に、ソフトウェアの使用を許可するなどの人間の知的労働をサービスと呼ぶことはできるが、それはソフトウェアそのものが製品ではなくサービスであるということを意味しない。たとえば、遊園地の各種の乗り物の使用許可などを考えればわかるように、何らかの製品の使用を許可することとソフトウェアの使用を許可することとの間に、人間の知的労働の一種であるサービスという点で何か重要な違いがあるわけではない。また、Johnson等のように、一般の市場で量販されているソフトウェアを製品、顧客の注文にあわせてカスタマイズされたソフトウェアをサービスに分類しても、Therac25などの医療機器や、航空機、銀行のオンラインシステム等の基幹産業に用いられる特殊なソフトウェアを大量販売されているソフトウェアとみなすことは難しく、これらについては依然として製造物責任法の対象外となるであろう。従って、もしソフトウェアの欠陥について製造物責任法の適用を念頭に置く場合には、ソフトウェアがサービスであるとされる場合の「サービス」を次のように考えたほうが、ソフトウェアを製品に分類することは容易である。

つまり、過去に、医療の初診を人間に代って行うプログラムELIZAが人間と機械とを同一視する風潮を引き起こしたことを踏まえて、ソフトウェアの「知的なはたらき」が人間の知的労働と混同されていると考えるのである。医療がサービスであるとされるそのサービスの少なくとも一部をソフトウェアプログラムで代用させるという考えの基盤には、制御と通信が動物と機械に共通の原理であるとするサイバネティクスの発想が潜んでいる。この発想のひとつのバリエーションがELIZAであり、ソフトウェアをサービスとして分類せしめている、と考えるのである。

このような考え自体が実際に正しいかどうかは別として、仮にこの考えが正しいとすれば、ソフトウェアの知的はたらきと人間の知的労働とは、次の点で明らかに異なるので、ソフトウェアをサービスに分類することは間違っていて、むしろ製品に分類するほうがより適切であるという結論を引き出すことができる。どういう点でソフトウェアと人間とは異なっているのかといえば、ソフトウェアは、何か不測の事態が起こった時に、予め組み込まれているアイデア以外のアイデアを自ら生み出すことはできないのに対して、人間にはそれができる。不測の事態への対応能力や判断力という点で、ソフトウェアと人間とは明確にことなっているということである。

こうして、ソフトウェアプログラムの行う知的なはたらきを人間の知的労働と同一視することは適切ではく、むしろ、それはあくまでも人間の知的労働の「所産」(product)として、製品に分類するのが適切である。この考えに基づけば、従来の考え方とは異なり、ソフトウェアの組み込まれた製品や量販されたソフトウェアだけでなく、そもそもソフトウェアそのものを製品と見ることができるため、それを製造物責任法の対象とすることが可能になる。サービス概念を私なりに見直すことにより、ソフトウェアそのものを製品とする見方を提出したということである。



補遺
ソフトウェアを製造物責任法の対象とするか否かが論じられる際には、しばしば、次のような議論がおこなわれる。すなわち、ソフトウェアがフロッピーディスクに記録された場合には当該法の対象外となるが、CD-ROMに記録された場合には当該法の対象になる、あるいは、フロッピーやCD-ROMに記録されたものは対象にならないが、マイクロチップとして組み込まれた製品なら対象になる等々の議論である。

だが、こうした基準設定の仕方はあきらかに恣意的である。このような基準の決め方が不毛であることを理解するために、次の例を考えてみよう。

まず、一円を小銭であるとしよう。一円が小銭なら、それに一円加えた二円も小銭である。すると、三円も小銭、四円も小銭、・・・百万円も小銭、一億円も小銭、世の中のお金はすべて小銭で、大金などない。

これは、いわゆる「質量転化の誤謬」という、有名な誤謬の例である。 つまり、「一円」、「二円」という「量」の問題を、「小銭」、「大金」という「質」の問題と取り違えた、いわば「カテゴリー・ミステイク」を犯したことに起因して、上述のようなパラドキシカルな結論が導かれるということである。この例で言わんとしているのは、大金か小銭かという「質」の問題は、一円、二円という金額(量)を見る人によって変わる、その意味で恣意的な問題であるということである。この恣意性が、以下のように、ソフトウェアの議論に現れているように思われるのである。

まず、上の例では「質」と「量」というカテゴリーが扱われているが、ソフトウェアの議論の場合には、これが「サービス」と「製品」というカテゴリーとして現れていると見ることができる。すなわち、フロッピーなら製造物責任法の対象にはならないがCD-ROMなら対象になるという場合には、「ソフトウェアが記録されたフロッピー」は、「製品(製造物)ではない」という意味で、ソフトウェアそのものと同様「サービス」に分類されたと見ることができる。これはつまり、100円なら小銭だが101円なら大金である(フロッピーなら製造物ではないがCD-ROMなら製造物だ)というに等しい。以下同様に、CD-ROMは対象外だがマイクロチップ製品なら対象になるという判断においては、101円なら小銭だが102円なら大金である、という判断に相当する判断が行われている。

このように、どのような媒体に記録されるかによって製造物責任法の対象を決めるという判断の仕方は、「質量転嫁の誤謬」同様、「サービス製品転嫁の誤謬」以外の何ものでもない。その意味で、この種の議論は、不健全な議論であると私には思える。

要約や論文の中で述べたように、私に言わせればそもそもソフトウェア自体が製品なのだから、この考えに基づけば、こうした「サービス製品転嫁の誤謬」は起こりようがない。言い換えれば、ソフトウェアそのものをサービスと見る誤謬によって、このような転嫁の誤謬があらたに生じ、その誤謬に基づいて、製造物責任法の適用対象が議論されているというのが、ソフトウェアに関する製造物責任法適用対象を巡る議論の現状であるという言い方もできよう。
by matsuura2005 | 2005-07-14 08:40
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