管理人 : 松浦明宏
パターナリズム
今日、研究室で紀伊国屋から届いたばかりのフローレンス・ナイチンゲール著『看護覚え書 改訳第6版』(現代社)をぱらぱらとめくっていたところ、「十二、おせっかいな励ましと忠告」の節が面白そうだったので読んでみました。

ろくに患者の病気のことなど知りもしないくせに、見舞いに来て患者に余計な「元気づけ」をしても患者は疲れるだけだということ。そんな余計なおしゃべりより、赤ん坊や鳥や犬の方が、よほど患者を元気づけることができるということ。つまり、主治医と何年もかけて話し合ってきたうえで現在の療養生活を送っている人のところへ、見舞いに訪れた人が、こんな医者にかかっているから治らないのだ、もっといい医者を紹介してあげる、とか、主治医の考えたことなどそっちのけで、ただ、これをすればよくなるとか、これを飲めばいいとか、無責任な励ましや忠告をすると、患者は混乱して疲れてしまう、ということです。

少し状況は違いますが、何かこれに似たようなことがあったなぁ、と、昔の自分を振り返って思いました。私は、大学のある仙台ではなく実家近くの病院に入院したこともあって、見舞いに来てくれたのは、家族の知り合いがほとんどで、見舞いにきてもほとんど母親や父親と話をしていました。その意味では、そのお見舞いの人たちは、私に「余計な元気づけ」をしたわけではなく、ナイチンゲールの本に書かれている状況とは違うわけですが、その代わりに、私の場合は、せっかくお見舞いに来てくれた人たちを無視しているわけにもいかず、かといって話の内容に入ってもいけず、ほとんど愛想笑いばかりしている状態が続き、そのことでかなり疲れたことを覚えています。しかも、お見舞いの人が次々と来ると、それだけでその日はぐったりとしてしまいました。このあたりはナイチンゲールの本とよく似ていると思いました。


「ほんとうに病状の悪い病人は、自分のことをあまり話そうとしないものである。」(167ページ)

まさにその通り。図星です。患者というのは、本当に危なくなると、それがわかる。しかし、というか、だからこそ、というか、ともかく、自分の本当の病状を誰にも言わない。一人で抱え込む。私の場合は医師にも言わなかった。大体の病状は話しましたが、肝心なことは話さなかった。言えば自分で自分に向かって死を宣告するような気がしたのかもしれません。特に私のように、これはがんなのではないかと疑っている場合には。実際にそれががんかどうかは別問題です。ともかく、自分ががんなのではないかと疑っているような場合、患者は自分の病状の一番重要な部分を、自分からは言わないのではないかと思います。


さて、書きたかったのは、そういうことではなく、むしろこの本を読んでいて、上述のことに加えて、お世話になったいろいろな医師や看護婦さんたちのことを思い出しているうちに、あるパターナリスティックな医師のことを書きたくなったので、この雑記を書き始めたのでした。

自分の父親の勤めている病院に入院したこともあり、私はいわば優遇された患者でした。普通なら術後一週間(二週間だったかも)で、集中治療室(のような部屋)から一般の病室に移されるのに、どういうわけか私は個室が空くまでその部屋にいることができました。そもそも個室に移れる患者なんてそんなにいない。よほど悪い病気でもない限りは。しかもその個室料金も格安。ギリシア語の辞書とテキストなどをどさっと持ち込んで、勉強するふりだけしていました。これが病室か?「こんな患者見たことないぞ。」と院長に言われたりしていました。

このように優遇された患者を、ある医師はあまりよく思っていなかったのかもしれません。その医師は、父母や他の医師が一緒にいるときには、非常に上機嫌に振舞っており、私に対しても、かなり好意的な態度を取っていたのですが、あるとき、その医師一人で回診に来たときに、私が、「胃カメラは気もち悪くていやですねぇ」、と、私としては、冗談半分で笑いながら言った時、態度が急変しました。ベッドの頭部にもたれて半分起き上がった状態になっていた私の頭上で、壁に両手をつき、私を見下ろし、にらみつけて、私にはいわゆるドスのきいた声と聞こえる声でこういいました。「ふざけるんじゃない。皆んな苦しいんだ。苦しいのをがまんして検査受けてるんだ。そうだろう。」その剣幕に驚いた私は、何も言えず、ただ黙っていました。

この医師が言っていることは正しい。決して間違ったことを言っているわけではありませんし、言わんとしていること、気持ちも多分正しい。その意味では、この医師に非はありません。しかし、その言い方にはやはり問題があった、と今でも私は思っています。

確かに、私は優遇された患者で、この医師には、甘やかされた患者とうつっていたのかもしれません(これは想像ですが)。そのことと上述の私の発言がおそらく相まって、そうした振る舞いをすることになったのかもしれません。しかし、やはり、患者の上に覆いかぶさるような威圧的な仕方で、私にはほとんど「暴力団員」のように見えるような仕方で、言うべきではなかった。

このことがきっかけで、その医師の言っていること自体は正しいことだとは承知しつつ、私はその医師を信用できなくなりました。

医師のこうした態度が、私には、いわゆるパターナリズムなのではないかと思えます。
その意味では、パターナリズムは、確かに、医師に対する信頼を失わせるものだと思えます。パターナリズムというのは、発言の内容によってではなく、発言するときの振る舞いによって、患者の信頼を失わせるものだということです。

これは実話です。その医師の名前と顔を今でも覚えています。しかし、証拠はありません。証人もいません。病室にビデオカメラが回っていたわけではありませんし、医師と患者が一対一になった場面で起こったことなのですから。

だから、医師の人となりが重要なのだと思います。患者以外の誰もいないところで医師がどう振舞うか、その振る舞いを決めるのは医師の人となりだけです。


P.S.
読み返して思ったのですが、こういう事例は果たしてパターナリズムと言えるのでしょうか。ひょっとすると、ただ単に、私がその医師に嫌われていて、その医師の個人的な感情が表れただけなのかもしれません。言葉の上では、患者が嫌がっていても患者のために厳父か暴力団員かはわかりませんがとにかく威圧的に胃カメラ検査を勧めているのですから、何となくパターナリズムという言葉があてはまりそうですが、単に贅沢な患者に腹が立っていただけだとすれば、パターナリズムという言葉が適切なのかどうか(04/02/27)。
by matsuura2005 | 2004-02-26 08:06
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