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管理人 : 松浦明宏
論文構想『テアイテトス』第二部メモ(5)
この論文構想シリーズの締めくくりとして、いくつかの点を補足しておきたいと思います。
(1)第一部との類似点 ー「試し」の特徴
第一部末の議論では、ソクラテスとテアイテトス以外の第三者「ある人」(tis)が登場し、この「ある人」の語る内容とテアイテトス自身の考えとを合わせると、「知識とは感覚である」という第一定義を保持できることになると解されました。その意味で、「ある人」の登場は「試し」と密接に関わっていると解されます(拙稿「思考の中の感覚」を参照)。

第二部の「蜜蝋の比喩」の末でも「ある人」が登場します。そして、私の解釈によれば、その人の語る内容とそれを敷衍したと見られるソクラテスの質問の中に、「知識とは真なるドクサである」という第二定義を保持するための鍵となる言葉が現れているように思います(「5と7」、「12」(「イデア想起を伴う真なるドクサが知識である」))。

委細はここでは省略しますが、いずれにせよ、「ある人」という第三者の発言は、定義保持に際して、重要な役割を担っているということになるように思います。

このことを念頭に置けば、たとえば、第二部の「鳩小屋の比喩」の末でもまた、同様に、「かの論争家」(200a12 ho elenktikos ekeinos)」という第三者が登場し、蜜蝋の比喩に登場する「ある人」を指して言われていると見られることは重要であると思います。「知と不知との両方を知っている」と言われる際の「知っている」(200b2 eidos)、および、「知と不知のどちらも知っていない」(200b3-4 oudeteran eidos)における「知って」(eidos)を、イデア想起を伴う真なるドクサと解すれば、知と不知とのどちらも知らずに判断を下すとは、イデアを想起せずに判断を下す場合にあたりますから、この場面で虚偽が可能になるということになるのでしょう。


(2)補遺
蛇足ながら以下の諸点を補遺として付け加えておきます。

(A)「鳩小屋の比喩」の末に見られる「知と不知」(200b2 episteme te kai anepistemosyne)とは、もともとテアイテトスの出してきた区別ではあるが(199e1-6)、既にそれらが正しいか間違っているかを知っている人の立場(イデアを想起している人の立場)から見た場合の表現であると思える。

(B)その立場を前提せずにそれらを表現した場合には、上記の「知と不知」のいずれも鳩小屋の中に飼っている状態の知、すなわち、「所有」(197b ktesis)としての知であるということになるように思える。

(C)したがってまた、それら「知と不知」との両方を「知っている」とされる際の「知っている」は、鳩小屋の中の鳥を捕まえた状態の知すなわち「所持」(196b1 hexis)としての知を、その背後で支えている知、ということになるのかもしれない。たとえば、鳩小屋の比喩における「所有」としての知が、蜜蝋の比喩における「5と7」を知っていることに相当し、「所持」としての知が「5+7=12」という判断における「12」に相当し、この「12」(もしくはこの判断全体)を背後で支えるのが、「12のイデア」であるということになるのかもしれない。

(D)鳩小屋の比喩の末で「かの論争家」によって提示されるアポリアのうち、「知と不知とのさらなる知をさらに別の鳩小屋の中に所有する」といった堂々巡りについては(200b6-c3)、そこでいわれる「さらなる知」が、イデア想起としての知であるとすれば、イデアというものは「根拠づけるもの」である以上、それ以上根拠をさかのぼる必要はないということになる。むしろそのようにさかのぼることは、第三人間論に似て、根拠づけるものと根拠づけられるものとの場面と無視した主張であるということになると思われる。したがって、別の鳩小屋を想定する必要はないということになるように思われる。

(E)以上のことを考えると、「ロゴスを伴った真なるドクサが知識である」とされる第三定義の場合も、夢理論の中で現れる「ある人たち」(201e1)の話の内容を、「試し」解釈という視点から検討することは、それほど無意味ではないと期待される。ただ、この点については、第二定義についての上述の解釈共々、今後さらに慎重に検討していくべき課題である。

(F)『ソフィステース』の虚偽論との関連。『ソフィステース』中核部の「異の部門」の議論の末では「あらぬ」のエイドスが示される。この「あらぬ」のエイドス(無規定な「ある」と無規定な「ある」との対置)と、「君について」(peri sou)という仕方で区切られた二つの領域(「君」と「君以外」)とは密接に関わっている。「君」について「飛ぶ」が述語づけられる時、「君」は無規定なもの、「飛ぶ」はその無規定なものを限定するものである。いわば、「君」という「あらぬ」のエイドス(無限定的形相)と「飛ぶ」という限定的形相との結合によって、「君は飛んでいる」という虚偽の言明が語られる。この対話篇において「テアイテトス(君)は飛んでいる」が形相相互の結合に基づいて成立する言表であるとされる所以は、「テアイテトス(君)」も「飛ぶ」も、(無限定的か限定的かという違いはあるが)いずれも「エイドス」であることにあり、これが『ピレボス』における限定と無限定とも密接に関わる。この事情は、『テアイテトス』第二部の虚偽論において、「5+7」という無規定なものと「11」という限定的形相とを結合することによって、「5+7=11」という虚偽の言明が語られうるとされていることとパラレルであると解される。
by matsuura2005 | 2005-06-29 17:33
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