管理人 : 松浦明宏
論文構想『テアイテトス』第二部メモ(4)
前回の論文構想の続きです。今回の内容が論文の主要部分になると思います。
前回は、プラトンが『テアイテトス』第二部においても、第一部と同様、読者を試しているという「試し」解釈の典拠となる箇所を示すという内容でした。今回は、その内容を、その箇所付近で行われている一連の議論とのつながりの中でとらえ直してみます。

前回指摘した箇所(196b-c)の前後の話の流れは、大まかに言えば、次のようになっています。

(A)知識を真なるドクサであるとする第二定義を立てた後、
(B)そもそも虚偽のドクサが成立しないかもしれないという話になり、さまざまな仕方で、虚偽の可能性が探求される。
(C)そのための一つの説明として出された「蜜蝋の比喩」においては、心の中の蜜蝋に記憶された印形(思考内容)と感覚対象とを結合するときに虚偽が生じ得る、という仕方で、虚偽の可能性が説明された。
(D-1)しかし、そこで「ある人」(195c7 tis)が登場して、ソクラテスの口を借りて言うところでは、蜜蝋の比喩によれば、虚偽は思考と感覚との結合の場合にしか生じ得ないことになるが、思考と思考との結合においても虚偽は生じ得るのではないか。
(D-2)つまり、蜜蝋の比喩においては、思考の中にある「12」を思考の中にある「11」と結びつけることはありえないということになるが、
(D-3)「5と7」を誤って「11」と結びつけることもあるのではないか。テアイテトスがこの計算間違いの存在を認めた結果、
(D-4)自分の知っているもの(「12」)と自分の知っているもの(「11」)とを結合することはあり得ないという、以前(B)の中で出された認識の一つと(D-3)とが相容れないというアポリアが生じる。
(E)だから、蜜蝋の比喩のように、感覚と思考との結びつきではなく、思考と思考との結びつきにおいて虚偽の可能性を示さなければならない、という話になり、それを示すために次の「鳩小屋の比喩」へと議論が進んでいく。

この議論の推移を見る時、奇妙なのは、(D-2)と(D-4)、特に(D-4)の存在です。つまり、単に「感覚と思考との結びつき」だけでなく「思考と思考との結びつき」の場合にも虚偽があるということを言うだけなら、(D-3)を示すだけで十分なはずなのに、(D-4)を持ち出してきて以前の認識との不整合を示している、という点が奇妙なのです。実際、

「(D-1)蜜蝋の比喩によれば、思考の中だけでは虚偽は生じ得ないということになる。
しかし、(D-3)思考の中だけで「5+7」を「11」と計算間違いすることもある。
だから、(E)蜜蝋の比喩では不十分であり、鳩小屋の比喩が必要である。」

という仕方で、(D-4)なしに済ませることができ、むしろ、その方が話の流れとしてはスムースであるように思えます。となると、何のために(D-4)が持ち出されてきているのかわからなくなる、ということになるのではないでしょうか。

ここで注意すべきは、(D-4)は「ある人」(tis)が持ち出してきた話ではなくて、それ以前にソクラテスとテアイテトスとの間で話題になったことであるのに対して、(D-3)は「ある人」の考えをソクラテスが代弁しているものと考えられることです(より正確に言えば、ソクラテスが「ある人」の発言を直接的に代弁しているというよりはむしろ、ソクラテスが「ある人」の考えに基づいてテアイテトスを吟味する際の発言と考えられます)。

そこで問題になるのは、(D-2)で言われる「12」の意味内容です。「ある人」はこの「12」を、「はっきり定まったもの」(限定されたもの)と、「5+7」という「まだはっきり定まっていないもの」(無限定なもの)との二つの意味内容を持っていると考えていると見られるのに対して、(D-4)では「はっきり定まったもの」としての知しか念頭に置かれていないということです。

もちろん、原文では、「限定」や「無限定」という言葉は出てこないのですが、(D-3)だけで十分であるはずのところを(D-4)を持ち出してきてこれとの不整合を示しているというところに、無限定なものを限定的なものと対照する意図があったのではないか、という言い方もできるかもしれません。

実際、「蜜蝋」は心の中にある何か「素材のようなもの」と見られるのですが、もしそうだとするとこの「素材のようなもの」に「実際にあるもの」(194d6 a} dh; o[nta)が刻印されることによって「印形・印影」(ibid.d1 ta semeia)が出来るという説明は、われわれ人間の心の中には、蜜蝋という無限定な要素と、印形という限定的な要素とがあるという仕方で理解することもできるように思えます。

また、蜜蝋があまり上等なものでない場合に、そこへ刻印されたもの、つまり「痕跡」(194e6 ta ekmageia)が「不明確なもの」(ibid. asaphe)になると言われるのも、蜜蝋の持っている本来の性格が「はっきりしないもの」、無規定的なものであるということの示唆とも受け取れます。

さらにまた、「5と7」における「5」や「7」は「はっきりとしたもの」であっても、「5と7」は「はっきりしないもの」であり、これはつまり、そのはっきりしないものを材料に推理・計算を行って「5」とも「7」とも異なる「12」という数を「思い浮かべる」という意味で、「エンノイア」(191d7 e[nnoiai)の材料となるもの、ということができるでしょう。

この「エンノイア」は、以下のように、『パイドン』の想起説に現れる言葉です。

「では、われわれはこのことにも同意するだろうか。知(73c5 ejpisthvmh)が何かこのような仕方で生じたとき、それは想起であると。・・・もしひとが、何か(A)を見たり聞いたりするか、あるいは何か他の感覚をしたときに、ただその何か(A)を知っている(c8 gnw'/)だけでなく、その何かとは異なるもの(B)をも思い浮かべたとしたら(c9 ejnnohvsh/)、そしてそのときの知は、(何かを知っているという時の知と)同じ知ではなく、別の知であるとしたら、どうだろう、その人は、その思い浮かべの対象となったもの(B)(c10 hou ten ennoian elaben)を想起したのだと、われわれは正しく語っているのではないか。」

たとえば、竪琴や衣服をそれとして見知り、それらをいつも使っている恋人のことを思い浮かべた場合に、「竪琴や衣服から恋人のことを想起した」というのと同様に、5と7をそれとして既に知っており(既に心の中の蜜蝋に印形として持っており)、それらから12という数を思い浮かべた場合に、「5と7から12を想起した」と言うことができるのではないかということです。もちろん、竪琴や衣服は視覚の対象であるのに対して、5と7はそれら自身思考の対象であるという点で異なっていますけれども、感覚を材料にした場合(いわゆるセンスデータ(?))であれ、既に思考の中にあるものを材料にした場合(既に心の中に印形として「与えられているもの」という意味で「思考のデータ」)であれ、何か既に与えられているものを材料として、その材料から、それとは異なる一つのものを思い浮かべるという点では同様であると考えることができるように思えるのです。

以上のことはまた、『ソフィステース』に見られるディアレクティケーにおける総合の過程の場合でも同様に考えることができます。「各々別々に横たわっている多くのものを貫いて、一つのイデアが伸び広がっているのを把握する」とはつまり、たとえば、ソフィストと魚つりとを頭の中でイメージ(印形)として既に持っていて、それらのイメージを材料にして、そこから新たに「獲得術者」という一つの姿を「総合する」ことであり、この「総合」と、それらのイメージから獲得術者という一つの姿を「思い浮かべる」こととは、少なくとも、今の話の枠内では、区別する必要がないと思えるのです。

したがって、『テアイテトス』第二部に見られる「5と7」は、『ソフィステース』で言えば、「各々別々に横たわっている多くのもの」であり、そこから思い浮かべられた「12」は、「一つのイデア」であるということになるでしょう。したがってまた、「5と7」における「と」(196a2 kai)、あるいは、「5+7」における「+」記号は、プラトンの言う「総合」(synagoge)(における「syn」)を意味しているということになるでしょう。

話が若干、脇道にそれましたが、いずれにせよ、上述の意味で、イデア想起、ディアレクティケー、『テアイテトス』第二部の蜜蝋の比喩は、内容上、密接な仕方で関わっているということができるでしょう。そして、そのことの示唆が、蜜蝋の比喩の末の議論において、そこでは「ある人」の代弁者となっていると見られるソクラテスと、テアイテトスとの対話によって与えられていると言うことができるでしょう。それがつまり、私の見るところでの、『テアイテトス』第二部の蜜蝋の比喩における「試し」解釈なのです。
by matsuura2005 | 2005-06-23 17:25
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