管理人 : 松浦明宏
論文構想『テアイテトス』第二部メモ(1)
下記は、旧HPにアップした「論文構想「記憶と想起 -Plato Theaetetus 187b-201c-」
Ver. 2.2」と同一内容です。

 『テアイテトス』第二部において、「知識とは真なるドクサである」という定義の吟味・論駁は、ごく大まかに言えば、次のように行われる。すなわち、蜜蝋の比喩や鳩小屋の比喩などを用いて偽なるドクサの存在を説明しようとしたけれどもうまくいかない(だから、定義項である「真なるドクサ」がそもそも意味を持つのかどうかわからない)。また、たとえば裁判官が真なる判断を下す時には、直接犯行現場にいたわけではないのだから知識を持っているわけではない。だから、知識と真なるドクサとは同じものではない。

 ここで、第二部の大半は偽なるドクサ成立の吟味に割かれ、これにくらべて、裁判官の例によって真なるドクサと知識とが同じものではないと結論する部分はあっけないほど簡単に終わっている。これほど簡単に終えることができるはずの第二定義吟味に、なぜ蜜蝋の比喩や鳩小屋の比喩などを出して偽なるドクサの成立可能性を探求したのか。第二定義が提出された直後に裁判官の例を出せば、それで直ちに第二定義を反駁できたはずではないか。この種の疑問は、おそらく、『テアイテトス』第二部を読んだことのある人なら誰でも抱く疑問であろう。何のために作者プラトンはこの二つの比喩を出したのか、これが本稿の問題設定であり、この問題に対して私は、「イデア想起を示唆するためである」と答えるつもりである。そのために、私は「記憶」の二義性に着目する。

 私見によれば、蜜蝋の比喩と鳩小屋の比喩は実質的にはいずれも「記憶」(192a2 mnemeion, 196a3, 191d6, etc.)に関わっている。まずは、蜜蝋の比喩は「形象」(191d10 to eidolon)という仕方、鳩小屋の比喩は(鳥の)「所有」(197b4 ktesin)という仕方で。鳩小屋の比喩における「所有(されたもの)」は蜜蝋の比喩における「形象」に相当すると見られるので(196a3 mnemeia)、この意味で「所有」は「記憶」と関わっていると解される。

 ところで、蜜蝋の比喩においては、外界から受けた感覚内容と既に刻印された思考内容とを対応づける場面で虚偽の成立を吟味していたが、たとえば「5+7」を「11」と判断する場合のように、思考内容と思考内容とを対応づける場面でも虚偽が成立するので、思考のみの場面での虚偽を考察するために鳩小屋の比喩が出されたのであろう。その際、たとえば、衣服を買って持っているけれども今現に身につけていない場合に、衣服を所有してはいるが所持してはいないと言われるのと同様に、鳥を捕獲して鳥小屋の中に保管しておくことを意味する「所有」(197b4 ktesin)と、既にそのように所有している鳥を実際に手にとって捕まえることを意味する「所持」(197b1 hexin)という区分が現れる。私見によれば、この区別によっておそらく記憶に二種類あることが示唆されている。「鳥小屋の中に所有された鳥」は、先にも述べたように、「蜜蝋に刻印された形象」に相当し、これが日常的な意味での記憶である。これに対して、「所持」は、以下に『ソフィステース』の分割法を参考にしつつ述べるように、いわゆる「イデア想起」(anamnesis)と密接に関わっている。つまり、「イデア想起を伴う正しい所持が知識である」ということであり、こう解した場合、「知識とは真なる判断である」という第二定義は成立することになる[1]。

 さてその『ソフィステース』の分割法であるが、この分割法についてここで詳述することは避け、『テアイテトス』の当該議論との関連で必要な点だけ述べることにする。

 今仮に、ソフィストの実相(イデア)が製作術者であったとしよう。その場合に、たとえば、「ソフィストは、獲得術者と製作術者のうちの獲得術者である」と判断されたとしよう。この判断は、言うまでもなく、虚偽の判断であるが、これは、あらかじめ探求者が所有(記憶)している「ソフィスト」という概念を、これもまたあらかじめ探求者が所有(記憶)している「獲得術者」という概念と「結合」するプロセスと見ることができる。したがって、探求者が、技術を獲得術と製作術に分割した後で、論題となる「ソフィスト」がそのどちらの技術に入るかを逡巡している最中に、ソフィストの実相(イデア)を「想起」できた場合には、必ず「ソフィスト」を「製作術者」という概念と結合するであろう。しかし、探求者がソフィストの実相を想起できなければ、「ソフィスト」を「獲得術者」と結合するということが起こりうる。

 『テアイテトス』の場合も、おおよそこれと同様に考えることができる。まず、『テアイテトス』においても、大群をなしている鳥、小群をなしている鳥、単独であらゆる鳥の間を飛んでいる鳥(197d)、「あらゆるものについてまわる」(186a)、差異(208d, e diaphora)・差異性(209a diaphorotes)、という仕方で、随所に類種関係を思い起こさせる表現が現れる。とすると、『テアイテトス』において、たとえば「5と7は11である」とする判断は、上述のごとく「ソフィスト」を「獲得術者」と結合するのに似て、「5と7」というあらかじめ所有(記憶)している概念を、「11」というあらかじめ所有(記憶)している概念と「結合」するプロセスと見ることができる。これはつまり、鳥小屋の中に既に所有している鳥(概念)を、これもまた鳥小屋の中に既に所有している鳥(概念)と「結合」する時に、12のイデアを想起せずに結合すれば、虚偽の判断が生じ得るということであり、他方、12のイデアを想起した上で結合すれば、「5と7は12である」という真なる判断しか生じ得ない、ということである。そして、「5と7は12である」とか「5と7は11である」といった結合判断が、テキストでは「所持」として扱われているので(199b6)、この「所持」と「イデア想起」とは密接な関係にあると思われるのである。

 このように、『テアイテトス』第二部の鳥小屋の比喩における所有と所持という区別においては、おそらく、概念などを覚えているという日常的な意味での記憶と、イデア想起という比喩的な意味での記憶という、二種類の記憶の区別が示唆されていると考えられる。記憶に関するこの区別を念頭におけば、テキストでは座礁している虚偽の判断の成立を説明できるであろう。

 また、以上のように解すれば、第二部末に現れる裁判官の例を比較的容易に説明することができるであろう。すなわち、裁判官は、肉眼で直接現場を見なくても、さまざまな証拠をつき合わせて思量(186d3 syllogismoi)することにより、心眼で事件の真相を見抜くことができる(想起(recollection)することができる)。ごく単純化して言えば、「5」に「7」を足せば「12」になるというのと同様に、「A」という証拠・聴聞に「B」という証拠・聴聞を加えれば「C」という結論が出てくる、といったことである。裁判官はこういう仕方で真なる判断を下すのだと考えれば、その真なる判断は知識であると言えるであろう。

 こうして、第二定義「知識とは真なる判断である」は、その定義項を「イデア想起を伴った真なる判断」と解することによって保持できるであろう。これは第一定義「知識とは感覚である」における定義項を「思考の中の感覚」と解することによって第一定義を保持できたのと同様である[2]。したがって、作者プラトンは、第二定義については、「イデア想起」という視点の導入によって読者自身が定義破綻のアポリアを自ら解決することを意図しており、そのために、一見不必要とも思える蜜蝋の比喩や鳥小屋の比喩を探求の中に組み込んだのであろう[3]。



[1] 以上の解釈は、第三定義「ロゴスを伴う真なる判断が知識である」のアポリアの解法とも密接につながっている。第三定義の吟味活動においては、「ロゴスを伴った真なる判断」における「ロゴス」というギリシア語が、下記「付記」にものべたように、文字や音声などの物理的なもの(言表、表現)という意味に解されているために定義が破綻したと考えられる。だが、この「ロゴス」を「理」の意味に解すれば、定義は破綻しない。理を伴った判断は偽ではありえず、その意味でそれを知識と考えて構わないからである。物理的な文字や音声などによって肉眼や肉体の耳を通して把握できる形に表された「言表」を伴わずに、心の中だけで下された真なる判断は、それが言表という意味でのロゴスを伴っていないという意味では「ロゴスを伴わない真なる判断」であり、この意味でそれは単なる「真なる判断」である。しかし、この単なる「真なる判断」が理という意味でのロゴスを伴っているとすれば、それは「ロゴスを伴った真なる判断」であるといえる。となれば、言表を伴っていないという意味での単なる「真なる判断」を、「理という意味でのロゴスを伴う真なる判断」と見れば第三定義の定義項になり、「イデア想起を伴う真なる判断」と見れば第二定義の定義項になる。そして、その同じ単なる「真なる判断」を、「イデア想起を伴う真なる判断」と見た場合には第二定義破綻のアポリアが解消し、「理という意味でのロゴスを伴う真なる判断」と見た場合には第三定義破綻のアポリアが解消する。この意味では、第二定義破綻と第三定義破綻とは、実質的に同じ仕方で解消するわけである。さらに言えば、イデア想起や理を伴うことは、イデアを「見る」ことであろうから、これらは「イデアを見る感覚が知識である」という仕方で、第一定義破綻のアポリア解消にも通じている。要するに、第一定義、第二定義、第三定義とも、その破綻が解消される場面では、それらの定義項は、何か同じ事柄を指す三つの異なる表現と見ることができるということである。

 注1についての付記 —第三定義吟味におけるロゴスの二義—
 「テアイテトスのディアフォロテース(差異性)を説明する」(209a5)と言われる場合の「説明」(hermeneia : explanation, expression)は、文字もしくは音声を用いた「言表」であって、「理」ではない。したがって、テアイテトスを他の人から区別する差異・差異性(⇒ことわり⇒理)を(言表なしに)把握しており、既にテアイテトスをテアイテトスとして正しく判断しているとき、「その正しい思いなしがあるのに、さらに言論を把握」せよと命じるのは「滑稽である」と言われる場合(209d)の「言論」は、理ではなく音声や文字による「言表」のことであるはずである。言表を伴ってはいないけれども理を伴っている真なる判断は、それだけですでに知識なのだから、それが知識であるためにさらに「言表」を付け加えるのは滑稽だということである。このことから見て、第三定義においては、ロゴスの二義性が問題解決の鍵を握っていると思われる。


[2] 拙稿「思考の中の感覚 -Plato Theaetetus 152-186-」、『フィロソフィア・イワテ』第35号、岩手哲学会、2003、12-24(初校ゲラ戻しの段階にあるため、ページ付けは未確定)。

[3] 知と不知の問題がテキストに織り込まれていることについては、いわゆる探求のパラドックスを念頭におくのがよいかもしれない。ものごとを完全知っていれば探求しないし、完全に知らなくても探求しない。仮に探求したとしてもまったく知らないものについてそれと知ることはできない。探求するときには、完全な知と完全な不知との間にある。この知と不知の中間の状態が、たとえば、本文中で指摘した、「ソフィスト」、「獲得術者」、「製作術者」、「5+7」、「11」、「12」といった、鳥小屋の中にあらかじめ所有(記憶)している「鳥」たちのことである。これらは、既に鳥小屋の中に所有されているという意味では、完全な不知に比べて知の状態にあるが、イデア想起を伴う正しい所持という完全な知に比べれば不知の状態にある。つまり、あらかじめ所有している「鳥」同士を、イデア想起に基づいて結合し、「ソフィストは製作術者である」、「5+7は12である」と判断した状態が、(その時イデアを想起しているとすれば)完全な知の状態であるということである。実際、そのようにイデア想起に基づいて判断した場合には、それ以上「5+7は何か」を探求しようとは思わなくなるであろう。
 また、このように解するとき、第二部末に現れる知識と無知識にまつわる「無限後退」の問題(200b-c)にも、説明を与えることができるであろう。すなわち、ここで言われる「知識」の「所持」が、もし「イデア想起を伴う所持」であれば、その「知識」についてさらに所有と所持との区別を立てる必要はない。なぜなら、その「知識」は「完全な知」であるはずだからである。だが、ここで重要なのは、人間であるかぎりそうした「完全な知」に到達することはおそらくできない、ということであり、このことをプラトンは「無限後退」によって表していると見られる、ということである。つまり、或る時に或る結合判断を下して、その当座はそれが正しい判断であると思え、それ以上、探求しようとは思わないほどの説得力を持っていたとしても、別の或る時になれば、その「正しい判断」に疑念を生じ、再びその論題となっていたもの(「ソフィスト」なら「ソフィスト」、「5+7」なら「5+7」)が一体何であるのかを探求し始めるということである。その場合には、一旦は「イデア想起を伴う所持」という完全な知(「知識」)と見られたその「結合」を解き、その結合判断の構成要素を「所有」という不完全な知(「無知識」)へと分解し、その不完全な知(「所有」「無知識」)から「所持」という完全な知を新たに目指して探求を始めることになる。このプロセスを無限に繰り返すことが、人間的知の有様なのであり、このことを件の「無限後退」によってプラトンは表しているのであろう。
by matsuura2005 | 2004-01-03 17:15
<< 哲学講義1 - 哲学のはじまり -